2015年2月12日木曜日

情熱の力を持っているのは誰か? パリでの襲撃事件後

情熱の力を持っているのは誰か?
パリでの襲撃事件後

正月早々起きたパリでの襲撃事件後、「事件解説」の記事が世の中にあふれた。その中でも、ツァイト紙に続けて載った哲学者による記事が私にはとても興味深かった。スラヴォイ・ジジェクはパリで精神分析を学んだスロベニアの哲学者だが、彼の説明は頷けるところも多いのに、過激な部分もあり、ことに「過激派左翼」の部分にも同感できないし、イスラム原理主義者の「劣等感」も、ジジェクも残念ながら西洋中心主義に取り付かれているのかと思ってしまうが、そう思っているところに2週後、それに対する「反論」をベルリン芸術大学で哲学と文化科学を教えている韓国人のByung-Chul Hanが書いた記事が載った。これには同感させられたし、考えさせられた。この記事は両方あわせて読まなければ意味がないので、続けて訳すことにした。(ゆう)


まずは1月15日に掲載されたジジェクの記事から。

活力に欠けたリベラリズムと宗教原理主義者との戦いを終わりにすることができるのはただ一つ、過激派左翼だけ
スラヴォイ・ジジェク
Die Zeit vom 15.01.2015 (Nach den Pariser Attentaten) Wofür wir kämpfen müssen
本文はこちら:http://www.zeit.de/2015/03/slavoj-zizek-charlie-hebdo-fundamentalisten


シャルリー・エブド編集部殺戮事件のショックが去った今こそ、落ち着いて考え直す勇気を持つ瞬間が来たようだ。今であって先延ばしは許されない、陳腐な真実を好む友たちが我々を説得しようとしているのが目の前にこうして見えている間に。今しなければならないのは、思考という行為をこの瞬間の熱と調和させることだ。「その後」の冷たさの中で反省しても、バランスの取れた真実は導くことができず、状況を正常な状態に戻してしまい、真実の刃先を避けるのを自分たちに許してしまうことになる。

考えるとは、襲撃事件後爆発的に広がり、大騒ぎが1月11日にその頂点を迎えた、一般大衆が示した連帯感のパトスを超える、ということである。あの日曜日、キャメロンからラブロフ、ネタニヤフからアッバースまで、世界中の大物政治家がこぞって手を繋いだ。偽善的な偽りの像というのがあるとすれば、これがそうだ。本当のシャルリー・エブドなら、こんな出来事を突き放して露骨に、ネタニヤフとアッバース、ラブロフとキャメロンやその他がペアになって情熱的にキスをしながら、背中ではナイフを研いでいる風刺画を描いて嘲笑っているだろう。

この殺人は、何の誤解の余地もなく私たちのあらゆる自由の中でも中核をなすものに対する攻撃であると、もちろん私たちは非難すべきだ。それも「でもシャルリーはちょっと挑発しすぎた、あの雑誌はイスラム教徒をあまり馬鹿にしすぎた」というような暗黙の断りをつけずに、である。そして、もっと規模の大きいコンテキストの情状酌量を促すような指示も、すべて拒否すべきである。例えば、襲撃した兄弟たちはアメリカによるイラクの占領で恐怖を体験していた、というようなことだ。それはそうかもしれないが、それなら彼らはではなぜ、米軍の施設を狙わず、フランスの風刺雑誌を狙ったのだ? 西側諸国に住むイスラム教徒は事実上、ぎりぎりのところで大目に見られ、搾取されている少数派だというなら、アメリカの黒人などはもっと大きい規模で同じ状況にあるのに、彼らはそれでも暗殺も殺人もしない、など、などである。このように複雑な背景の呪文がかかっていることの問題点は、それがヒットラーに関してもうまく機能するものだ。つまり、彼はヴェルサイユ条約の不公平性を自分の目的のために利用することに成功したが、それでもナチ政権を可能な限りの方法で打倒しようとするのはまったく正当だったということだ。テロ暗殺行為の基盤にあるよからぬ情況が真実かどうかということが問題なのではなく、不公平に対する反応として現れ出てくる政治的イデオロギー的プロジェクトが問題なのだ。

原理主義者たちはひそかに劣等感を持っている
でもこれだけでは不十分だ。私たちはもっと先へ考えていかなければならない。そして、もっと先へ進んで考える、というのは決して「では西洋にいる我々とは一体何者なのだ、第三世界で恐ろしい殺戮を繰り返してきた私たちが、このような行為を咎められるというのか」というようなよく知られた文句の、犯罪行為を陳腐に相対化することとは違う。そしてそれはまた、西洋のリベラル左派の多くが持っている、イスラム恐怖症だと思われたくないという病的な不安とも、もっと関係がない。この似非左派どもは、イスラムに対するあらゆる批判に対し、それが西側諸国のイスラム恐怖症だとレッテルを貼り、ちょうどサルマン・ラシュディにかつて同じようにレッテルを貼ったように、イスラム教徒を不要に挑発し、彼を死罪と宣告したファトワー(イスラム教の勧告、宣告等)に対し(少なくとも共同)責任があると言っているのだ。このような態度が招く結果は、このような場合はっきり予期できる。つまり、西側のリベラル左派が自分の罪の意識を感じれば感じるほど、彼らはイスラムの原理主義者たちから、自分たちのイスラムに対する憎しみを必死になって隠そうとする偽善者だと咎められることになるのだ。このような状況は超自我のパラドックス以外の何物も生み出さない。他者が自分に求めているものに従えば従うほど、自分の罪が重くなる、というわけだ。イスラム教に寛容であればあるほど、イスラムが与えるプレッシャーが強くなっていくように見えるのだ…

Guardian紙に1月7日に掲載されたサイモン・ジェンキンズ(Simon Jenkins)が言っているような、「慎み、控えめ」を求める声では、私は従って不十分だと考える。ジェンキンズによれば、我々の義務とは「敏感に反応しすぎず、(襲撃が及ぼす)影響をマスコミで過大に言い立てるのではなく、今回の事件を一過性のおぞましい災難として捉える」ことにある、という。しかし、シャルリー・エブドの襲撃は決して「一過性のおぞましい災難」などではなかった。これは厳密な宗教的政治的プログラムに基づいて実行されたものであり、その意味で紛れもなく、もっとずっと大きなモデルの一部だったのだ。もちろん、盲目的なイスラム恐怖症に陥る、ということに関して言うなら過剰反応するべきでないのは確かだ。しかし、このモデルを何の容赦もなくきちんと分析することが大切である。

テロリストのことをヒロイズムに嵌った自爆テロの狂信者だと、悪魔の申し子のように見るよりももっと重要で説得力があり効果的なのは、こうした悪魔の神話を暴くことである。かなり前にフリードリヒ・ニーチェは、西洋文化は大きな情熱や義務感を失った無関心無感情の生き物「最後の人間」になる方向に動いている、と信じていた。夢を持つことができなくなってしまい、人生に嫌気がさし、この生き物はもうなんのリスクも背負わなくなり、ただ安楽と安全だけを追い求めるようになる、寛容さそのものになったつもりで:「ところどころにちょっとだけ毒を入れると、心地よい夢が見られる。毒がたくさんだと心地よい死に至る。〔...〕昼間必要な快楽と夜に必要な快楽を。でも健康がそれでも一番。『我々が幸福という概念を発明したのだ』と最後の人間は言って目くばせする」。

だから究極的には、寛容的第一世界と、それに対する原理主義者の反応の間に横たわる溝は、物質的および文化的富に恵まれた長くて満足のいく人生VSもっと上位の目的を追った人生というこの、差がどんどん広がっていくだけの対立と同じになっているように見えるかもしれない。しかしこの対立は、ニーチェが言っていた「パッシブ」なニヒリズムと「アクティブ」なニヒリズムとの対立ではないのか? イスラム過激派がすべてを賭け、自分を殺してでも戦いに身を投じる心の用意があるのに対し、西洋の我々はニーチェの言うところの最後の人間で、くだらない日常的な快楽を追ってばかりだ。ウィリアム・バトラー・イェイツの「帰還」という詩がこの私たちの状況をしっかり言い当てているようだ:「善良な者は疑いに満ち、悪者たちは情熱の力に満ちている」。この箇所は現在の活力に欠けたリベラリストと情熱的な原理主義者たちとの間の溝をうまく表現しているように読めてしまう。「善良」なものたちはもはや心底賛同してなにかに打ち込むということはできなくなっており、「悪者」たちは人種差別的、宗教的、性差別的ファナティズムにどんどん嵌っていくのだ。

ただ、この表現は本当にテロリストの原理主義者たちに当てはまるのだろうか? チベットの仏教徒とかアメリカのアーミッシュなどの真の厳格な「原理主義者」の間ではすぐに観察できる「なにか」が、彼らには欠けているようだ。それはルサンチマンや妬みの不在、そして不信心者の生き方に対する徹底的な無関心さ、である。今日原理主義者と呼ばれている者たちが、本当に真実に至る道を見つけたと思っているとしたら、なぜ彼らは不信心者に脅かされているなどと思うだろう、なぜ彼らを妬む必要があるだろう? 仏教徒が西洋の快楽主義者に出会っても、別に非難したりせず、単ににこやかに、快楽主義者の幸福の追求は不成功に終わる運命にある、と確信するだけだろう。真の原理主義者と違って、似非のテロ原理主義者たちは不信心者の罪深い生き方によって駆り立てられ、魅惑され、魔法をかけられているのだ。罪深い人間を制圧しようと戦いながら、彼らが自分たち自身の誘惑と戦っているのが感じられるのだ。

この点において私たちの現在の不幸に対するイェイツの診断は表面的過ぎるといえよう。テロリストの「情熱の力」は本当は、真の確信の欠乏を露呈しているのである。風刺雑誌に載った馬鹿な風刺画を見て脅威を感じるようなイスラム教徒の信仰など、どの程度抵抗力のないものだろうか? 原理主義的イスラムの恐怖とは、テロリストが自分たち自身の優越性を確信していて、自分たちの文化的宗教的アイデンティティをグローバルな消費社会による征服から守ろうとしていることにあるのではない。原理主義者たちとの問題は、彼らは私たちより劣等だと私たちが思っているのではなく、彼ら自身がひそかに劣等感を持っていることにあるのだ。だから、我々が彼らを見下しながら、ポリティカルコレクトネスに沿った言い方で、私たちは彼らに対し一切優越感などもっていない、などということが、彼らの怒りをもっと煽り、彼らのルサンチマンをもっと強くしているのである。この問題は文化的相違(自分たちのアイデンティティを守ろうとする彼らの試み)などではなく、反対に、原理主義者たちが実は我々のスタンダードを自分たちのものとしてしまい、自分たち自身をその標準に照らし合わせて評価しているという事実にあるのだ。パラドックスにも、イスラム原理主義者たちに本当に欠けているのは、自分たちが誰よりも優れているのだと確信する、真の人種差別的優越感なのだ。

イスラム原理主義の最近の運命的な打撃は、どのファシズムの興隆も、失敗した革命から生まれる、というヴァルター・ベンヤミンの古い見解を裏書している。すなわち、ファシズムが始まるのは、左派が役立たずだったからであり、同時に左派がうまく動員できなかっただけで、革命的ポテンシャルと現在の状況に対する不満は実際に存在する証拠である、というものだ。これは今のいわゆるイスラムファシズムにも言えることではないだろうか? ラジカルイスラム主義がこれだけ広まったのは、イスラム教徒の国々で世俗の左派が衰退したことの相互作用ににあるのではないだろうか? 2009年の春にターリバーンがパキスタンのスワット谷を掌握した際、ニューヨークタイムズは「右派の大地主からなる小さなグループと土地を持たない小作人たちとの間にある深い溝を利用した階級闘争」を企んでいる、と論じていた。ターリバーンがしかし「実質的にはまだまだ封建社会であるパキスタンのリスクを前に」、農民の困窮を「利用し」、それにより事実上パキスタンのリベラル民主主義を阻止し、かつ米国がその困窮を同じく「利用して」土地を持たぬ農民たちを助けるのを阻止することで、警鐘を鳴らしたとしたら? この問いに対する悲しい答えは、パキスタンの封建的権力はリベラルな民主主義の「自然の同盟者たち」であるという事実にある…

2つの極端による終わりのない悪循環
それでは、リベラリズムの基本的価値はどのようなものだろうか? パラドックスなのは、リベラリズム自身は、原理主義的襲撃から身を守れるほど強くないということだ。原理主義とは、反応なのだ。もちろん、神秘化された、嘘の反応ではある。それでもリベラリズムの真の欠点に対する反応であり、だからこそ常に何度でもリベラリズムから起こってくる。他に頼るものがなくなって取り残され、リベラリズムはどんどん自らを破壊していく。そしてリベラリズムの中心的価値を救えるのは、生まれ変わって再生した左派だけだろう。この決定的な遺産が生き延びるためには、リベラリズムは、左翼の過激派の兄弟愛的助けに頼る以外にないのだ。原理主義を打ち負かすにはこの方法しかない、つまり彼らの根を絶つのである。

パリでの殺人行為について今考えるということは、寛容なリベラリズムの高慢なうぬぼれを捨て、リベラルな寛容と原理主義の間の摩擦はとどのつまり嘘の紛争であると認めることである、互いが互いを生み出し、互いが互いを前提条件にしてしまっている、二つの極端な形態の悪循環であるということを。マックス・ホルクハイマーが1930年代にすでにファシズムと資本主義に対して言っていたこと、つまり資本主義を批判的に捉えようとしない者は、ファシズムに対しても口を閉ざすべきだという説は、現在の原理主義にも当てはまる。リベラルな民主主義を批判的に捉えようとしない者は、宗教的原理主義に対しても黙っているべきだ。


次に紹介するのがByung-Chul Hanの反論。この2つは必ず合わせて読んでほしい。
敵への憧れ
Sehnsucht nach dem Feind
本文はこちら:http://www.zeit.de/2015/05/terrorismus-radikale-linke-antwort-slavoj-zizek

マルクスは死に、もう戻っては来ない。
新左翼の過激派も、イスラム原理主義者に対する戦いには勝てない。
我々に必要なのは新しい生活形式だ、
ネオリベラリズムの実存的空虚感から救済してくれる生活様式が。
「情熱の力」を訴えたスラヴォイ・ジジェクに対する反論

今日左翼というのはどのような位置に立っているのだろうか? スラヴォイ・ジジェクは、そのパリの襲撃事件について書いたテキストの中で、左翼の過激派を懇願していた。活力のない、頼りない西洋のリベラリズムと宗教的で情熱的な原理主義者の間の闘争を終わらせることができるのは、左翼の過激派だけだと、彼は述べていた。どうやったらそうなるのだろう?

ジジェクはまず、テロリストの原理主義がその劣等感症候群からきていると理解している。原理主義者たちは不信心者により存在を脅かされ、彼らを攻撃しているのだと。仏教徒なら、西洋のヘドニズム信仰者にあっても、別に非難などせず、その幸福の追求が失敗することはもとより決まっているとにこやかに確信するだけだという。このような真の原理主義者と違って、テロリストの似非原理主義者たちは不信心者たちの罪深い生活様式に魅惑されていて、それで自分たちの誘惑を克服するために罪深い他者たちを制圧しているのだ、と。

しかしジジェクが考えているのとは異なり、仏教の原理主義というのは仏教の基本的信念から言って、ありえない。仏教というのは神が存在しない宗教だ。原理も絶対者もないと信じることが、仏教の特徴である。それに反し、一神教はその内面構造から言って、暴力を、別の信仰に対し反発を持ちやすい。さらに仏教は意志も情熱も放棄している。この理由から言っても、仏教徒のテロというのは考えにくい。快楽主義者に対する仏教徒の平静さはだから、「彼らが真の原理主義者」であるからではない。

イスラムのテロリストの情熱とは、本当は心底確信しているものがないことの現われだ、とジジェクはさらに続ける。「馬鹿な風刺画を見て脅威を感じるようなイスラム教徒の信仰など、どの程度抵抗力のないものだろうか?」と彼は問う。イスラムの恐怖の根にあるのは、テロリストがひそかに、自分たちを劣等だと思っているからだ、というわけだ、イスラムの原理主義者には、自分たちの優越性に対して確信がない、と。

憎しみはテロリストの側にあるだけではなく、両側にある。過激なイスラム教徒だけが憎しみで西洋を揺るがそうとしているわけではなく、西洋だってイスラムに対して憎しみを持っている。ドレスデンではしかも、イスラムというのは想像上の空間にしか存在しない。西洋文明が本当に強いものだと思っているなら、このイスラムに対する憎しみはどうやったら説明できるだろう? 実は、活気のあるイスラム教に対し、ひそかに劣等感を感じているのではないのか? 健康というものが「新しい神」(ニーチェ)として崇められ、人生がヒステリックなサバイバルとなってしまった社会で、テロリストの持っているあの決意の固さ、ジジェクが書いているような「自分を殺してでも戦いに身を投じる心の用意がある」、その決然とした態度に対する妬みが生まれてはしまいか?

西洋のリベラルなヘドニズムをジジェクはニーチェと共に「パッシブなニヒリズム」、「最後の人間」の文化だと呼んでいる。何の危険も冒そうと馳せず、快適さと安全だけを求めている、と。彼らの理想は長くて健康な人生だ。それに対し、イスラム原理主義者たちの精神的あり方についてジジェクは、やはりニーチェに従い、「アクティブなニヒリズム」と呼んでいる。彼らはあらゆるリスクを冒し、神のためには自らの死すら捨てる用意があるのだ。

ジジェクがイスラムの原理主義と「アクティブなニヒリズム」を同じものとみなすのはしかし、問題だ。なぜなら、「アクティブなニヒリズム」とはニーチェにとってはとてもポジティブで生産的なものだからである。アクティブなニヒリズムとは、これまでなかった新しいものに地盤を提供することだ。浄化作用のある嵐のような形で現れ、あらゆる信仰による確信を拒否するものだ。となれば、イスラムの原理主義は「アクティブなニヒリズム」とはおよそかけ離れたものである。それはニヒリズムなどではなく、西洋のヘドニズムと物質主義に矛先が向けられた、信仰による確信により歴史の流れを逆戻りさせる、暴力的な形態だ。

過激派左翼が本当にテロリズムを防ぐことができるのだろうか? 快楽主義的な西洋と、「最後の人間」の文化とさっぱりと縁を切り、テロ暴力の原理主義に反応することができるのだろうか? おそらく「最後の人間」は過激派の左翼を正当な評価に値する人間と認めはしないだろう。彼らは単にちょっと困惑して、目をしばたたかせるだけだろう。今日では、左翼が有機栽培の店で買い物をし、ヨガ講座に通う「最後の人間」になってしまったのだから。

幻想的な自由の名において死で自分の生きがいを達成
ジジェクは、ファシズムの興隆はどれも不成功に終わった革命から始まる、しかしそれは同時に革命のポテンシャルがあるという証拠であり、それをただ左翼が動員できなかっただけだとするヴァルター・ベンヤミンの見解を引き合いに出している。しかし、どの革命を彼は指しているのだ? ジジェクはそれからフランスやヨーロッパを去ってパキスタンに飛び、「金持ちの大地主の少数派グループと土地を持たぬ小作人の間にある深い溝」のことを語っている。彼は、過激なイスラムは、世俗の左翼がいなくなったことと相互作用して出現した、と予測している。それなら、大地主から土地を取り上げるマルクス主義的革命が起これば、原理主義は克服できる、とでもいうのだろうか? そんなことはない。パキスタンと違って、例えばイラクは封建制度国家ではないが、ここでこそ「イスラム国家」(IS)猛威を振るっている。イラクでは封建的な社会は1958年の革命までしか続かなかった。その後は土地改革が実行されたのだ。それだけでなく、原理主義は世俗的な左翼が防ぐことのできない世俗に対する反応である。

ジジェクはマルクス主義に固執するあまり、革命という概念から離れられない。しかし、マルクス思想が今日世界を説明することも改善することもできない事実を、彼は見そこなっている。我々はポスト・マルクス主義の時代に今生きているのだ。

労働からの疎外がマルクス主義の核をなす思想だ。労働者が富を生産すればするほど貧しくなっていくというパラドックスに基づいた思想である。自分が生産するものの中に自分を見出すことができない、それは労働者から生産物が取り去られるからだ。彼が生産する物は、彼の所有物ではない。彼の労働は持続的に彼を「自己実現から遠ざける」ものである。革命しかその疎外した状態を終結することはできない。

この、マルクスが説いた疎外はしかし、今日の労働と生産の関係を表現してはいない。ネオリベラルな体制にあっては、搾取はもはや疎外や自己実現からの疎遠としてではなく、自由と自己実現として行なわれる。自己実現すると信じながら、自分で自分を搾取するのだ。そしてそれが燃え尽き症候群や精神の高揚状態の最初の段階でもある。自己陶酔して人は仕事に打ち込むのだ。そして最後には疲れ果てて倒れてしまう。死ぬほど、自己実現してしまうというわけだ。ネオリベラルな支配が幻想的な自由の背後に隠れている。そう、この支配は、自由という化けの皮をかぶっているのだ。支配は、それが自由と共に一致した瞬間に完結する。自由だと皆が感じている自由が怖いのは、それがどんな抵抗も革命も不可能にしてしまうことにある。

別の言い方をすれば、こうである。ジジェクはマルクス主義的幻想の信奉者だ。彼は、再生された左翼が先導して起こすべき革命を夢見ている。しかし、疲労困憊した鬱病の個人主義者たちは、反対運動のうねりを作り出すことは不可能だ。このことがジジェクにはわかっていない。エッセイの最後で彼は、議論でまったく違うレベルに飛び移って、矛盾したことを述べている。突然イスラムの原理主義はもはや劣等感症候群ではなくて、「リベラリズムの真の欠陥」に対する反応なのだ、と言っている。他に頼るものが誰もいなくなって、リベラリズムはどんどん自らを破壊していく、「生まれ変わった左派」しか、その中心的価値を救うことはできない、とジジェクは述べている。リベラリズムは過激な左翼の兄弟愛的な助けに頼る以外にない、というわけだ。しかしジジェクはそのような「過激な左翼」がどのようなものなのかはまったく語っていない。ジジェクにあっては、ただ亡霊のように現れているのだ。

イスラム原理主義に関わる問題は、それよりもっとずっと複雑である。過激派の左翼がいても、それを解決することはできないだろう。イスラム教も西洋も両方とも敵のイメージになりきっている。敵という図式に圧倒されていた冷戦後、新たに敵が戻ってきたのだ。ジジェクはしかしこの、敵対関係という問題をまったく捉えていない。

敵とは何だ? 敵とは、カール・シュミットによれば社会的なカテゴリーには属さず、現存的カテゴリーに属している。シュミットは、敵とは「存在論的根源性」だという。敵がいて初めて、私が誰かが定義される。敵は自分のアイデンティティに安定性を与えてくれるものだ。「敵とは、存在形式としての自分自身の問いそのものだ。だから、我々は、自分の大きさ、自分の限界、自分の姿を得るために、敵と戦わなければならない、そのことで我々は実は、自分と向かい合うのだ」。リベラリズムではしかし、敵がいなくなる。敵の代わりに現れるのは「競争相手」だが、競争相手はアイデンティティを与えてはくれない。グローバルなネオリベラリズムが生み出す現存論的空虚はしかし、またその敵を蘇らせる。ペギーダにせよイスラム過激派にせよ、彼らに共通しているのは「敵を持ちたいという憧れ」だ。イスラム過激派にとって敵は西洋であり、ペギーダの「欧州愛国者」たちにとっては、イスラムなのだ。

グローバルなネオリベラリズムはどんどん安全や確かな関係といったものをなくしてきた。今日、安心できる職場などなくなった。純粋にただ競争のみに還元されたこのシステムでは誰も安心感など持てない。大勢の人間があらゆる不安にさいなまれている。うまく機能できないかもしれないという不安、失敗するかもしれない不安、置いてきぼりにされてしまうかもしれない不安。完璧なネットワーキングにより監視される接続はあっても、本当の関係、身近に思う人や近所づきあいなどというものはどんどんなくなっていく。持続して存在するものは何もなくなっていく。ここで生まれるのが、なにか確かなものに対する憧れだ。この憧れをうまく利用しているのがイスラムの原理主義であり、過激派右翼である。このような場所で生まれ変わった左翼などに何ができようか。左翼の原理主義が提供されるというなら話は別だが。

フランスの作家ミシェル・ウエルベックがあるインタビューで、短期間の間に親しい者たちの死を経験したことが、新しい小説「屈服」を書くきっかけとなったと述べている。自分の無神論では、自分の愛犬や両親の死を乗り切れなかったという。損失は耐え切れないほどつらかった。それで彼の小説の主人公フランソワも当てにできる確かなものを求める気持ちに追い立てられる、人生の意味を求めるようになるのだ。この小説のタイトルはもともと「屈服」ではなくて「改宗」というタイトルだったそうだ。最初の下書きでは、主人公はカソリックに改宗する。しかし最後の原稿では退廃的で疲労しきった西洋に背を向け、彼はイスラム教徒になる。

私たちが今日必要なのは、まったく新しい生活様式だ。右でも左でもなく、確かで当てになるものと、確かに私たちを結び付けてくれるものを生み出すことのできる生活様式、それでいて暴力や排除の形式を一切持たない、秘教(エソテリック)的ではないスピリチュアリティが、システムが原因で生まれた損傷を治癒するためだけのセラピー形式として場所を与えられるような生活様式、シェアリングを超えた本当の分かち合い、Giveがちゃんと成立する生活形態が。

もしかしたら、このような新しい生活様式は革命など前提としなくてもいいのではないか。いや、その反対である。有名なカフカのことを書いた文章の中でヴァルター・ベンヤミンはこう書いている。「せむしの小男という民謡で同じことが象徴化されている。この小男はゆがんだ人生を生きる羽目になっている。救世主が来ればそれは消滅する。その救世主についてある偉大なラビがこう言っている。救世主は暴力で世界を変えるつもりはない、そうではなくて世界の歪みをほんのちょっと元に直すだけだ」と。

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