2013年11月1日金曜日

フェアフォン ── 似て非なるスマートフォン

フェアフォン ─ 似て非なるスマートフォン
Stefan Schmitt報告
2013年10月17日付けツァイト紙

私があれだけはしたくないといまだに頑固に持たないでいるのが、いわゆるスマホ(なんというおぞましき略語!)だ。どこに行っても、誰もがあの小さい平らなディスプレイをフェティッシュのように撫で回している。誰と一緒に話をしていようと、何をしていようと、この奇妙な機械がなにか音を発信すると、真っ先に手にとってご機嫌を取る。情報源もコミュニケーションも、すべてそれ任せだ。そして、これがなければ「今の世界では通用しない」ことをなんの疑いもなく皆が受け入れている。それで、私はできる限り、そういう電子産業、情報通信機器産業のいいなりにはなりたくないとがんばっているのだが、そういう私だって旧型の携帯は持っている。こうやって「仕方がない」「そういう時代だから」と根本的な問いかけをせずに受け入れていることがなんと多いことか。でも、それはまったくの思考停止である以上に、敗北とそれをごまかす言い訳に過ぎない。それでは、どう「仕方がない」とせずに自分で考え、意思を貫いていくことができるかは、一人一人にかかっている。市場の流れに乗らされ、従順な消費者に成り切らずに、市場の独裁からなるべく自分を解放するというのは、難しい問題である。その中で、この記事を見つけた。こういう話は気持ちがよくて、こういう試みがあることをうれしく思ったので(私がそのフェアフォンを買いたいと思うかどうかは別として)、訳すことにした。(ゆう)

フェアフォン ── 似て非なるスマートフォン
Keines wie alle andern

スマートフォンをエシカル(倫理的に正しく)に製造することは可能か? 電子産業より納得できるものを作ろうと、「フェアフォン」を作り出したスタートアップがある。
Stefan Schmitt報告

見知らぬ民族のもとで暮らしてみる民族・人類学者もいれば、匿名で社会の底辺の職にもぐりこんでレポートするジャーナリストもいる。石器時代に使われていた道具を作ってみる実験考古学者もいる。これらに共通なのは、一風変わった方法で、なにかを見つけ出してみようとする好奇心だ。あれこれと試しながら、なにかを知ろうとする好奇心。そのためには、できれば内部に入り込んでやってみるのがいい。これと同じ好奇心で携帯製造会社をつくった好奇心の旺盛な人たちがいる。彼らはグローバルな電子産業の今の状況 - というよりは今の悪状況 - を見極めてみようと思ったのだ。

これから語るのはフェアな携帯、「フェアフォン」の話である。始めはキャンペーンだったのがスタートアップに成長し、そして実験としての道を歩み始めた。小さないい「お手本」として、この産業に物言うためである。

驚くことに、この話はこれまで、サクセスストーリーでもある。初夏にはすでにオンラインによる注文も開始した。「倫理的価値を大切にした、本当にクールなスマートフォン」という宣伝文句だ。たくさんの人たちがお金を前払いして、この携帯電話の製造を可能にし、おそらくクリスマス前にはそれを手にすることになるという。このような共同の前払いのシステムは、クラウドソーシングと呼ばれる方法だ。そして目標注文数の5000件をはるかに上回る注文が集まった。5000という数字は、大量生産を開始できるかどうかの境目だ。

このような資金調達も変わっているなら、この会社の自己認識も変わっている。「当社にとって、これはただの製品という以上のものです。これは私たちにとって、研究プロジェクトです」とフェアフォンの広報担当、Tessa Wwernink氏は語る。しかし秘密のプロジェクトではない。フェアフォンは開発のプロセスをウェブサイトで公表し、回り道をしてしまった場合や学びとった経験を詳しく報告している。彼らの勘定計算はオンラインで詳細に見ることができる。最後の1ユーロに至るまで、丁寧にリストアップされているのだ。

Wernink氏はアムステルダムの中央駅からわずかなところにある、倉庫を改造した建物の中の、とても長い机に座っている。まわりでは十数人の仲間が働いている。そのほか社員としてロンドンにSean、中国にMulanがいる。これがこの会社のすべてだ。携帯は大体、世界企業が製造しているのが普通ではないか?

サッカーチームくらいの頭数の人間が揃えばスマートフォンの製造には事足りる、というのがフェアフォンが語るキャッチフレーズだ。これを裏付けるのは、電子産業が数十年かけて確立した、極端なアウトソーシングである。計画と組織はアムステルダムで行い、それ以外の作業を引き受けるのは、アジアのサービス業者だ。

この秋、オランダのメインオフィスにプロトタイプが届いた。フェアフォンは緑色でもないし、麻でできているわけでもなく、禁欲的な感じもなければエコ調を装っているのでもない。普通のどこにでもあるスマートフォンと大して変わらない外見(ボタンがほとんどなく、大きなタッチパネルで角が丸まっている)で、アンドロイドで動くし、今日売られている平均的な新型モデルが普通できて当然なことはすべてできる。iPhoneほど薄くも強力でもないが、その代わり値段は約半分といったところだ。

技術的なディテールについては、その長所短所に関して長々と議論が可能だろう。しかし、これだけ「普通」の体裁で、それでいて「全然違う」ものであろうとする携帯電話というと、どうしても知りたいことがある。それのなにがフェアなのか、ということだ。なにを「改善」しようとしているのか? それでなにを結果として得ようというのか?

2013年6月12日水曜日

エネルギー


EnergieFür Klima und Wachstum: „Club der Energiewendestaaten“ gegründet
エネルギー:環境と経済発展のため
「エネルギー政策変換国クラブ」を結成
ドイツ・フォーカス・オンライン(Focus Online201361日付け
本文はこちら:

ドイツの環境省大臣アルトマイヤー氏が、ドイツとカ国が参加した「エネルギー政策変換国クラブ」を結成したことを発表した。ここに日本は加わっていないが、東京新聞によると、日本には打診すらなかったそうだ。東京新聞の見出しでは「再生エネルギークラブ」となっているが、本当はドイツ語ではClub der Energiewendestaaten、エネルギー政策変換を行っている国のクラブ、という意味だから、活断層の上に建っているおんぼろ原発を再稼動し、福島の事故に懲りずアメリカですら訴えられている技術でさらに原発を輸出しようと熱心な日本は、エネルギー政策変換を行っている国とは見なされなかったからだろうか。国が進めるこうした「会議」は、その公の主旨だけでは判断できないものがあり、注意しなければいけないのは確かだが、再生エネルギーを語っていくのに、今後は一国レベルだけで考えているわけにはいかないし、また大手電力会社のロビーが強いのはどこの国でも同じことなので、再生エネルギーに対して国際レベルである程度の「ロビー」ができていくことは大切だろう。ただ、原発大国フランスが加盟しているとなると、かなり不信感が募る。(ゆう)


東京新聞の記事はこちら:
独主導で「再生エネクラブ」結成 日本に打診なし

ドイツとさらに9カ国がこのたび、「エネルギー政策変換国クラブ」を結成し、再生エネルギー活用の世界的拡大を促進していく意向だ。

連邦環境大臣ペーター・アルトマイヤー(Peter Altmaier, CDU)は、この土曜日(訳注:2013年6月1日)ベルリンで開かれた当グループの共同審議会の後、こう述べた。「未来の形成には、再生エネルギーが重要な役割を果たす。その再生エネルギーの増強は気候・環境には欠かせないものであるが、裕さと経済発展と相容れないものではない」。

このクラブ結成の最初のメンバーはドイツのほか、中国、インド、フランス、イギリス、デンマーク、それに南アフリカ、モロッコ、アラブ首長国連邦、トンガである。国際再生可能エネルギー機関(IRENA)も一緒に活動する。最後まで揉めたのが中国の参加で、これは、中国が世界でも有数の環境汚染国といわれているからである。ベルリンで行われた審議会では、国家能源局の再生エネルギー部門部長であるShi Lishan(史立山)氏が中国を代表して出席していた。

共同声明では、国際的に現在通用しているエネルギーシステムでは、気候、環境、貧困撲滅、エネルギーの安全性と発展にとって危険が潜在している、風力、太陽などによる再生可能エネルギーは既存の問題の解決に重要な鍵となるはずであり、当クラブはこうした再生可能エネルギーの増強を加速していくよう、刺激を与えていきたい、ということだ。

アルトマイヤー大臣は、「主導を握ったこのメンバーたちは決して『閉じられた会合』ではないものの、当面その他の国に拡大することは計画されていない。重要なのは、世界のあらゆる地域にあり、異なる発展状況にある国々が集まっていることだ」と語っている。環境大臣は今年の1月にアブダビで開かれた IRENA 会議で、当クラブの創立を促してきた。

中国代表の史立山(Shi Lishan)氏は、化石エネルギーの膨大な消費による中国での環境問題を認めた上で、2020年までには風力発電を合計200ギガワットまで増やすこと、太陽光発電の総電力量を100ギガワットまで高める計画であることを伝えた。比較すれば、EUでの風力発電総電力量は100ギガワット、ドイツでは30ギガワットである。

フランスの環境大臣、デルフィーヌ・バト氏は、フランスでもエネルギー政策変換を進めるべく努力しており、再生エネルギーを重視している、これは地球温暖化防止のため、欠かせないことであるだけでなく、新しく雇用を増やすことにつながるだろうと述べた。トンガの首相トゥイバカノ氏は、エネルギー政策変換は、今後の生存を決定する問題だと説いた:「再生エネルギーがなければ、我々はじきに破滅してしまうだろう。」

2013年6月11日火曜日

図書紹介『小国主義』


『小国主義──日本の近代を読みなおす』

田中彰 著 岩波新書 660円+税

何かの文章で見たタイトルに興味を持ちメモしておいたものだが、改憲がいよいよ迫ってきたいま、気にかかっていたこの書を購入した。1999年に出版されていたもの。著者の専門は「日本近代史」。ずっと以前から岩波文庫の目録でのみお馴染みだった「岩倉使節団『米欧回覧実記』」の監修者である。

明治維新成ったものの近代国家をどうイメージするか、という難問にぶつかった維新の中心人物たちにアドバイスしたのが、お雇い外国人のオランダ系米国人宣教師G・F・フルベッキで、欧米の視察を提案した。長年の鎖国から目覚めた日本国が幕藩体制から西欧中心の国際社会にいかに参加していくかを学ぶことを目的とする国家プロジェクトとして実行された。岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら総勢46名で1871年に米国を皮切りに1年10か月をかけて米欧14か国を視察した。帰国後、大使随行の久米邦武が記録係として、「実記」の編集・執筆に当たった。

明治維新に功労のあった薩長の重鎮たちは、米英仏などの大国に目を奪われたが、使節のなかにはオランダ、ベルギー、スイスなどの小国が大国の侮りを受けずに国威を発揚していることに注目する者があった。「実記」は全100巻のうち12巻を小国の記述に当てている。

その後、国家主義が幅をきかしたわけだが、「小国主義」を唱える流れは続いていった。民権運動者植木枝盛→中江兆民→三浦銕太郎→石橋湛山という人たちが受け継いぎ、著者に拠れば、伏流水のように現れたり隠れたりしながら、消えなかったと。国土が小さく、資源が乏しい国では軍備を廃し、領土拡張を止め、学問技術の研究と産業の進歩に力をそそぎ、個人の自由と活動の増進を図ることが肝要であるという点はこの人たちに共通している。殊に軍備の拡大は国民を苦しめるだけで、経済的損失の大であることを言っている。

1945年の敗戦後に米GHQの要請により憲法草案が提出されたが、中でも「憲法研究会」(高野岩三郎、鈴木安蔵ら)の草案には植木枝盛の「日本国々憲案」に相似している部分が多く、まさに小国主義の考えでできている。政府から「憲法調査委員会の「憲法改正要綱」(松本烝治委員長)が提出されたが、言葉の言い換えはあるが、「帝国憲法」と変わらない発想であるとして退けられた。占領軍の「押しつけ憲法」からの脱却を改憲論者は盛んに唱えるが、「憲法研究会」の要綱が主として採られたことは無視しての言論だとわかる。

「湛山は軍備が必要なのは、『他国を侵略するか、あるいは他国に侵略せらるる虞れあるかの二つの場合のほかはない』という。いま、政治家も軍人も新聞記者も異口同音に、日本の軍備は他国を侵略するためではないといっているから軍備の必要はない。他国からの侵略の虞れも、かつてはロシア、いまではアメリカを挙げたりするものの、彼らが日本の本土を奪いに来るだろうか、と述べる」

いま、安倍政権に同じことを言いたい。小さい国が「G」のつく会議に出て、背伸びをするのは民を苦しめるだけだと。「小国」論よ、大声になれ!
(凉)
反「改憲」運動通信 第8期22号(2013年4月24日発行、通巻190号)

図書紹介『いま、憲法の魂を選びとる』


『いま、憲法の魂を選びとる』

大江健三郎、奥平康弘、澤地久枝、三木睦子、小森陽一 著
岩波ブックレットNo.867 500円+税

2004年10月に「九条の会」がスタートし、その翌年05年6月にこの「反改憲」運動通信が出発した。自民党が「新憲法草案」を出したのが05年10月。12年に自民党の「日本国憲法改正草案」がでた。この8、9年の間、反改憲派と改憲派がお互いに鎬を削ってきたのだ。

「九条の会」はこの冊子の著者5名以外に、井上ひさし、梅原猛、小田実、加藤周一、鶴見俊輔の9人が発起人として並んでいたが、井上、小田、加藤、三木の4名が他界されている。紹介のこの冊子は、2012年9月に開かれた講演会「三木睦子さんの志を受けついで─いま、民主主義が試されるとき」の講演から大江、澤地、奥平の3講師の話に、07年6月の三木睦子さんの「九条の会」学集会での挨拶が巻頭に、巻末に奥平さんと小森陽一さんの対談で構成されている。

三木さんは「あなたのおじいちゃまはねえ」と安倍首相(やマスコミ)が、母方の祖父の話ばかりするが、父方祖父の安倍寛さんの戦中の反戦活動についてもっと声を大にして語れ、と。「あなた」とは安倍首相のことなのだ。

大江さんは、人口の比率からいったら、ヤマトの比ではない人数の沖縄の反基地闘争や、粘り強く訴えつづける反原発の声を無視して、オスプレイ配備を強行したり、原発の存続が日本経済の要のように振舞う自民党政権のこの国は、民主主義国家なのか、と。

奥平さんは、「押しつけられた憲法」というが、あの戦争体験のあと、押しつけられたかもしれないが、それを自分たちの感度に合うものとして選びとってきた、それをずっと続けてきたのではないか、と。

澤地さんは三木睦子さんがどういう方だったかを紹介、加藤周一さんが日本がだんだん軍事化していく土台は、日米安保条約である、と言われたことなどを引いて、亡くなったかたたちの志を継いでいきたいと。

奥平さんと小森さんの対談は、「国民主権を守る思想としての憲法」と題して2013年2月に行われたもので、憲法改正の方向が示されはじめてから今日までの経緯がコンパクトにまとめられ、解説され、ていねいで便利な教科書になっている。

共通して話されている歴史的事例として、「砂川大訴訟」がある。大江さんは「『選びとる』とはどういうことか? ぼくなどがそこで想起するのは、たとえば、砂川大訴訟があります。この訴訟はものすごいエネルギーを要しました。そしてまさに、そういうかたちで、憲法九条のあの平和主義を、ただ単にぼくらは見ていたのではなくて、ぼくたちも一緒になって守ろうとした。つまり、加藤さんの言葉を使わせていただくと、そういうかたちでぼくたちは『選びとった』。それをずっと続けてきているんです。」

ブックレットは薄くて安価で入手しやすい。各項ともお話で、論文ではないので読みやすい。自習にも、会合のテキストにも最適。「九条」が危機的な状況のいま、お薦めしたい。
(凉)
反「改憲」運動通信 第8期23号(2013年5月15日発行、通巻191号)

図書紹介『希望をつむぐ高校』


『希望をつむぐ高校
──生徒の現実と向き合う学校改革

菊地栄治 著 岩波書店刊 1800円+税

著者は早稲田大学教育・総合科学学術院教授という肩書きの方。1996年に、国立教育研究所で主に高校教育改革研究プロジェクトにかかわり、全国の高校から提供された資料を通読しているときに、大阪府立松原高校の実践報告と「あゆみ」となづけられた資料に出会い、胸躍るような感動を得たという。長い引用になるが、菊地さんと同じ位置からのスタートをするためにお許し願いたい。

「世間では高校を一流校、二流校、三流校…と、いわゆる序列をつけています。それは大学進学にのみに価値をおいた考え方であり、それによって人間の価値さえも決定するような誤った考え方です。(略)国立大学へ何人受かったかによって順位をつける考え方は、社会で必死に生きている一人一人の人間を侮辱した考えかたといえるのではないでしょうか。(略)他人のことにかまっていられない人間は、知らず知らず人を差別する事を許容し、人間らしい温かな思いやりを失っていきます。また総ての人々の心を荒ませていきます。その時にまず最初に切り捨てられていくのは、社会的に弱い立場の人々です。障害者や、部落民や、在日朝鮮人や……母子家庭、父子家庭、貧しい家……の人々です。松原高校は、この高校間格差を否定するために作られた学校です。いわゆる一流でも、二流でも、三流でもない学校、仲間を大切にし、権利を奪われた者が生き生きとし、生きることの意味、そのための学力を身につけるために作られた学校です」

なに念仏を言っているのかとさえ言われそうな文だと思う。でもこの書を読むと、この文が空念仏ではないことがはっきりする。菊地さんが、ハッとしてすぐ飛んで行ったということにも打たれる。松原高校は中卒を受け入れる職場がすっかりなくなり、子どもたちをなんとか高校に進ませたいと求める部落地域の親たち、また、地元中学を卒業させても受験校ばかりで、進めさせる高校がないことに悩んだ中学校との願いでつくられた、大阪府立高校だ。だが、差別されてきた生徒たちが素直に勉学に打ち込んでゆくはずがない。その難問を引き受けた教師陣が、いくつもの試練、対策、驚くべき工夫の末に、いまの松原高校があることを、菊地さん自身の眼で如実に見たと、ここに報告されている。奇跡のようなことを成し遂げていくのは工夫されたシステムのせいではなく、一人一人の教師の「まごころ」の成果であったのだ。

菊地さんは、「現代の若者たちは、現実社会の限界を読み取り、希望を見いだせない状況にある。希望が朽ち果て、公正な未来を展望しにくい、いわば『希望劣化社会』を生きている。」と書いている。私たちも同じ絶望を生きているが、ときどき、「希望」を与えてくれる人の存在を識ることがあり、また希望をつないで生きつづけることができる。この1冊を要約して紹介することはできない。一言一言に重みがある。夢物語ではなく、まっとうな人間がやりぬいた事実を、どうか読んでいただきたいと切望する。
(凉)

反「改憲」運動通信 第8期21号(2013年4月10日発行、通巻189号)

図書紹介『治安維持法』


『治安維持法
──なぜ政党政治は「悪法」を生んだか

中澤俊輔 著 中公新書刊 860円+税

私は公権力の押しつけに反対の意思表示の方法として、いつも街頭デモ行進を積極的に選んできた。何も表現方法をもたない者にもアピールが可能になる。怪訝な表情や邪魔だとばかり睨んでいる街行く人たちに、「こういう意見や意思を持っていることを知って!」「反対している人だっているんだよ」と伝えたいと願って、大小のデモ行進に参加してきた。70年の反安保や三里塚闘争のうねりが去り、ヘルメットに棍棒のイメージがなくなってからの参加だった。それでも集会やデモの周辺には常にオマワリとマスクをして野球帽のような帽子を被ったコーアンがつきまとっていた。

それが近ごろ彼らの数が増え、締めつけの輪がずんずん縮まって、怖ろしさに身が硬くなる。正式に届けを出し、実に整然と歩いているだけなのに、なにかと干渉してくる。「反原発」のデモなどでは子どもやベビーカーもいる。それをせきたてる。「警備」とは、行動する人を脅す役割に徹したものだ。

国家権力が嫌うのは昔から「安寧秩序の乱れ」だ。それにこの国には「天皇制」というものがある。この制度の死守と「私有財産制」維持のために1925年に「治安維持法」が生まれた。その後、改正や加法があって、敗戦まで猛威を奮ったことはよく知られている。奥平康弘著の『治安維持法』が1973年に出版され、これによって学んだ人は多いようだ。私は不勉強のまま過ぎてきた。しかし、最近の公権力の目に余る過剰警備、弾圧に加えて、政権交代で右傾化政策の増加が危ぶまれてならないので、保守派が尊重する「治安対策」の歴史を学びたく思った。

この書の著者は1979年生まれ、若き学徒である。新書版で読みやすい。しかし内容はよく先行の研究を踏まえ、要領よく維新以後の国家の意思・狙いがまとめられ、教えられた。彼の新味は、政治結社である政党が、なぜ、結社の自由を規制する法を作ったのか、ということにあるらしい。また、内務省と法務省との確執にも観察が届き、この二省と二政党のせめぎあいと、ロシア革命、共産党の胎動、大逆事件などの社会的な流れの中から「治安維持法」は生まれ、肥大していく過程がよく整理され、お薦めの一冊だ。

あれほど彼らが恐れた共産党の拡がりも、ソ連崩壊で案ずることもなくなり、あとは、天皇制護持=国体の安定と安寧秩序の維持が「警備」の目的となっているのだ。以前から、ポツダム宣言受諾条件の「国体の護持」という言葉に疑問を持ち続けてきたが、この書の終わりに中澤さんは、「昭和天皇は、三種の神器を守ることをも含めて、ポツダム宣言の受諾を決意した。『国体』の定義は、日本の命運を背負わせるには漠然としすぎていた。政党は何を守るかを明確にするために、もっと真摯に言葉を選ぶべきだった。」とある。何年にもわたって守り育てた「治安維持法」のなかで、一貫して曖昧にごまかし通してきた「国体」なる用語こそ、いまも継承され続けている底意の表れだ。 (凉)

反「改憲」運動通信 第8期16&17号(2013年2月6日発行、通巻185号)

2013年4月22日月曜日

放射線テレックス 2013年4月号


放射線テレックス 2013年4月号
チェルノブイリ原発事故から27年
チェルノブイリの放射性セシウムがいまだにブルーベリージャムに
Strahlentelex 630-631/4.4.2013
27 Jahre nach Tschernobyl
Weiterhin Tschernobyl-Radio-cäsium in Heidelbeermarmelade

人の記憶はかなりいい加減で思い出したくないことは簡単に意識から追いやれるようだが、放射能はそんなことはない。チェルノブイリのことを思い出したくない人はたくさんいるだろうが、土にはしっかりしみこんでおり、土から生命につながっている。今日本の放射能汚染を意識に取り上げようとしない人たちはあとから大きなしっぺ返しを食うことになる。そういう考えが自分でできるようになるために私たちはあんなに何年も学校で勉強してきたのではなかったのだろうか。(ゆう)

チェルノブイリの放射性セシウムがいまだにブルーベリージャムに
日本の横浜にある市民測定所が、ドイツのジャムメーカー「シュヴァルタウ」(Schwartau)製のブルーベリージャムにおいて1キロ当たり22.2±4.6ベクレルのセシウム137による汚染を測定した。セシウム134は含まれていなかった。これは「Schwartau Extra Blueberry Jam」という製品名の、賞味期限が2014年6月26日のもので、原産国「ドイツ」と書かれた340グラムのガラス瓶入りのブルーベリージャムである。この製品のメーカーラベルは英語とギリシャ語で書かれている。

セシウム134がないことから、ここで使われたブルーベリーはチェルノブイリのフォールアウトによって汚染された地域で採れたものとみなすことができる。チェルノブイリ原発事故により発生したセシウム137は、27年後の今もまだ半減期に至っていない。

横浜の市民測定所では、このブルーベリージャムは、全体のセシウム放射能としては日本で適用されている制限値100ベクレル/キロ範囲内であるが、2012年4月から6月にかけて日本の厚生省がおこなった抜き取り検査で、オーストリアのジャムメーカーStaud(シュタウト)、フランスのメーカーLe Potager(ル・ポタジェ)そしてHediard(エディアール)に140~220ベクレル/キロの不特定の放射性セシウムによる汚染が見つかっている、と伝えている。これらのジャムで使用されているブルーベリーはほとんどがポーランド原産で、ごく一部にウクライナ産のものもあった。ヨーロッパでは日本と違い、放射性セシウムの制限値は600ベクレル/キロだ。

横浜の市民測定所が比較として参照しているのが、日本の農林水産省が2012年7月始めから8月半ばまでに行った測定値である。日本製の新鮮なブルーベリーで検出された全体のセシウム量は1~190ベクレル/キロだった。この中で最大の放射線量を測定したサンプルは福島県と宮城県産のブルーベリーであった。市民測定所では福島県の農業総合センターを引き合いに出して「ブルーベリージャム製造では、砂糖やその他の調味料などを入れてもブルーベリーの放射能の量に変化は生じない」と述べている。
http://ycrms.blog.fc2.com

2013年4月12日金曜日

福島原発事故から9ヶ月後に日本で出生率減少


福島原発事故から9ヶ月後に
日本で出生率減少
Rückgang der Geburten in Japan
9 Monate nach Fukushima
放射線テレックス2013年2月号 アルフレット・ケルプライン著(Alfred Körblein)
本文はこちら: http://www.strahlentelex.de/Stx_13_628-629_S02-03.pdf

2011年12月、福島の原子炉事故から9ヵ月後、日本では2006年から2011年の間の傾向と比較し、日本全体で4.7%(p=0.007)、福島県では15%(p=0.0001)という著しい出生率の後退が起きている。同じような事態がヨーロッパ諸国でもチェルノブイリ事故から9ヵ月後の1987年2月に起きた。出生率の減少は1ヶ月に限られていることから、突然の流産が相次いだと考えられる。そしてこれが放射線被ばくによるものであることは、ほぼ明らかである。

背景
日本における乳児死亡率の月ごとのデータを評価した結果、福島原子炉事故の9ヵ月後にあたる2011年12月の出生率は著しく減少していることがわかった(2012年12月号の放射線テレックスを参照 [1]  http://donpuchi.blogspot.de/2012/12/12_19.html)。ここで筆者は、同じような出生率の低下がチェルノブイリ事故の9ヵ月後にバイエルン州でも認められたことを指摘した。

1987年2月のバイエルン州での出生率後退が偶然によるものである可能性を排除するため、筆者は、チェルノブイリのフォールアウトを受けたその他のヨーロッパ諸国の月ごとの出生率データを評価した。

データと方法
以下の国々の生産(訳注:しょうさん、生きて生まれる、の意味、死産の反対)率の月ごとのデータをそれぞれの統計局に問い合わせた。西ドイツ、バイエルン、オーストリア、イタリア、クロアチア、ハンガリー、ポーランド、フィンランドである。キエフ市のデータは筆者が2001年にすでに、キエフ出身のGolubchikov氏より個人的に手に入れてあった。

生産数の傾向は、ポアソン回帰分析(統計パッケージR、関数glm() family=quasipoisson)で評価した。生産年間数は、その年の個々の月に対するダミー変数でモデル生成した。1987年2月の動きの大きさを突き止めるため、さらにダミー変数を用いた。

結果
表1に [1] で紹介した日本全体と福島県の2011年12月の生産率後退の結果が示されている。この両方のデータにおいて2011年12月の動きは著しい(日本全体:P=0.007、福島県:P=0.0001)。

表1:日本全体と福島県における2011年12月の出生率減少




福島県での生産数の時間的移行と出生数予測値からの逸脱は左側の図1に示す。



図1:福島県(左上)とキエフ市(右上)における生産数の経過と回帰ライン
下の図は観測された出生数と予想出生数の間の逸脱を示す(標準化残差)。水平の点線は予測範囲95%を示す。



調査されたヨーロッパ諸国とキエフ市における1987年2月の出生不足に関する結果を表2に示す。11.5%の出生率減少と、南バイエルン(オーバーバイエルン行政管区、ニーダーバイエルン行政管区、シュヴァーベン地方)が一番顕著(P=0.0009)である。南バイエルンは、ドイツの中でもチェルノブイリのフォールアウトが一番激しかった地方である。それに比べ被害が少なかった北バイエルンではこの動きはあまり目立たない(−5.2%、P=0.160)。著しい出生率減少を示したのがバイエルン(−8.6%、P=0.009)、イタリア(−6.8%、P=0.017)、クロアチア(−8.2%、P=0.007)、ポーランド(−4.6%、P=0.050)である。西ドイツ、オーストリア、ハンガリー、フィンランドでは結果は10%のレベルでのみ顕著である(P<0.10)。


表2:ヨーロッパ諸国/地方における出生率減少


出生率の減少が一番顕著なのがキエフ(図1、右側)であり、ここではこの傾向が2月だけでなく、1987年の最初の6ヶ月にわたって続いている。1987年1月から3月まで期間の出生数不足はことに著しい(−27.3%、P<0.0001、2484件出生が不足しており、そのうち817件が2月)。

図2に南バイエルン、ポーランド、クロアチアの生産数の残差を示す。比較のため、日本での2006年から2011年までの残差も示した。


図2:4カ国または地方で観測された出生数と予想出生数の間の逸脱(残差)、および予測範囲95%




論争
図2からわかるように、出生数の後退は日本でも南バイエルン、クロアチアでも1ヶ月に限定されている。ポーランドとキエフでのみ、1987年の1月から3月の期間にわたり続いている(4.9%、P=0.0004、7803件出生数が不足)。これは、出生数が、受精から間もなく流産が多く発生して起きた結果による後退だということを示唆している。

この調査結果から、流産が放射線被ばくによるものだと考えるのが妥当である:

・原子炉事故によるフォールアウト被害を受けた国または地方でこの傾向が見られる
・この傾向は原子炉事故発生とそれに伴う放射線被ばくからちょうど9ヵ月後に起きている
・この傾向は、放射線被ばく量が高ければ高いほど、顕著に見られる


堕胎が増加したのであれば、出生率の後退は1987年2月より前、または2011年12月より前の月々で見られたであろう。妊娠を自粛した結果であるのならば、2月より前の月々でそれがはっきり現れるであろう。しかし、実際にはそうではない。南バイエルンとクロアチアでは、1987年の1月にも、3月にも予測値からの著しい逸脱は見られない。それと同じことが日本の2011年11月や2012年1月に対しても当てはまる。だからこそ筆者は、原子炉事故発生後の初めの数週間の間に放射線被ばくを受けた結果、自然流産が多く発生したのだということが、この出生率後退を説明する最も確率の高い原因だと考える次第である。

2013年4月10日水曜日

放射線テレックス(2013年2月号)


放射線テレックス(2013年2月号)
福島県住民の甲状腺被ばく量は大したことないというが、
実際は甲状腺被ばく量測定は行われていない
Die Schilddrüsendosiswerte von Bewohnern der japanischen Präfektur Fukushima sollen unbedenklich sein

Nr. 626 – 627 / 2013原文はこちら:http://www.strahlentelex.de/Stx_13_626-627_S06-07.pdf

2013年1月27日に東京で行われたシンポジウムで、日本の学者たちは、福島原発事故直後に行われた甲状腺検診の評価を通して、福島原発事故により大気中に飛散されたヨウ素による住民への危険性はないという結論を出した。日本の環境省は2012年に千葉県にある国立の放射線総合医学研究所(放医研、独立行政法人)に、福島原発事故後の放射線被爆の実態を科学的に検証するよう依頼した。朝日新聞の報告によれば(注1: http://apital.asahi.com/article/news/2013012700002.html、放医研でこのプロジェクトを代表する栗原治氏は、放医研の内部被ばく評価につき、甲状腺検査を受けた児童1,080人、および放射性セシウムによる内部被ばく検査を受けた成人300人のデータから、体内の放射性ヨウ素の濃度はセシウム137の3倍だと仮定した。

線量がとりわけ高い双葉町、飯舘村、川俣町、浪江町の住民約3000人のセシウム内部被ばく線量から、甲状腺被ばく線量を推計したと栗原氏は語っている。この推計によれば、飯舘村に住む1歳児が30ミリシーベルトと最も高い被ばく量を示している。双葉町での最高の被ばく量は27ミリシーベルト、そしてその他の地方では18ミリシーベルトと2ミリシーベルトの間だったという。国際基準では限界値は50ミリシーベルトなので、この値を超える被ばくがなければ、ヨウ素剤を予防薬として飲む必要はない、ということだ。

甲状腺被ばくが証明できなくても(放射性ヨウ素131は半減期が8日である)、福島原発事故で許容量以上の被ばくを受けた住民はいないであろう、とのことだ。なお、この研究結果は中間結果であり、最終結果とみなしてはいけないそうだ。

シンポジウムの討論会では「ヨウ素とセシウムの比率はもっと高い可能性もある」などの意見が出たと朝日新聞は報告している。

デアゼーのコメント:この日本の学者たちによる結論はかなり大胆である。チェルノブイリ事故後のソ連と同じように、ここでも甲状腺の被ばく線量は実際には測量されていず、単に推計したに過ぎない。広島大学の原爆放射線医科学研究所で仕事をする小児科医の田代聡教授は、原発事故の後、広島で2012年3月9日に行われた講演会で、甲状腺被ばく線量の測定に関する方法または状況について以下のように述べている(注:http://www.hiroshima.med.or.jp/ippnw/sokuho/docs/2151_006.pdf

緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)が事故当初から充分に活用されていれば、住民の避難はスムーズに実施されていたはずだがhttp://ma.med.or.jp/ippnw/sokuho/docs/、実際の発表は2011年3月23日になってからだった。そして大きな問題はここにある。つまり、子供が一日中部屋の外で過ごしたら、100ミリシーベルトの被ばくを受けたことになる地方が、避難地域に指定された半径30キロメートル以外のところにもあることで、たとえば飯舘村、川俣町、いわき市などはそうした例で、これらの地方は避難勧告を受けなかったのである。

放射性ヨウ素の半減期は短いため、検査は早急に行われなければならない。原子力安全委員会の助言のもとに、なるべく多くの人たちの甲状腺被爆調査を行い、スクリーニングレベルを0.2マイクロシーベルト/毎時とした。これは、甲状腺等価線量で100ミリシーベルトに相当するという試験結果が放影研より出ているためである。まず、バックグラウンドが毎時0.2マイクロシーベルト以下の場所を探し、そこにスクリーニング会場を設置した。本来なら専門施設での計測が望ましいが、当時は震災の混乱が収まっておらず、またNaIサーベイメータが被ばく検査のために福島に集められていたので、このような形で簡易検査が実施された。

実際には現地でスクリーニングすることが可能な会場を探すのも大変だった。例えば、飯舘村では屋外は平均毎時8マイクロシーベルト、屋内でも3〜7マイクロシーベルト、土の上1cmだと約20マイクロシーベルトであり、唯一バックグラウンドの低い場所は、村議会の議長席裏のスペースだった。川俣町では立派な公民館の2階の一角が0.2マイクロシーベルト以下だった。人の出入りやドアの開閉でも線量が上がるので、建物に入る前に身体の汚染を検査し、玄関でも靴を脱ぎ、問診し、測定場所の前で集まってもらった後に、一人ずつ測定場所に入れて、やっとサーベイメータを子供の前頸部にあてることが出来た。

いわき市、川俣町、飯舘村の3市町村で合計約1,000名の子供を計測することが出来た。最高で毎時0.1マイクロシーベルトの子供が1名いたが、この子供は4歳という年齢を考慮すると35ミリシーベルト程度になるとされている。99%が毎時0.04マイクロシーベルト以下、半分以上の子供からは検出されず、全体的に見ると重篤な甲状腺被害を受けた子供は限定的であると推定される。実際には子供の被ばくを防ぐために、母親が子供を2週間外出させなかったり、水は自治体が用意したりと、集団で子供を守ったのがよい結果につながったと思われる…

以上が田代教授の報告内容である。よく考えてほしい。ここに挙げた毎時マイクロシーベルト単位での測定結果をミリシーベルトの甲状腺等価線量に算出しなおした値は、実際に子供の前頸部で測定された値と、高くなっているバックグラウンドの線量との差から出てくるものだ。甲状腺の被ばく量とバックグラウンドの線量が同じ値である場合には、この方法は使えないのである。甲状腺という臓器の等価線を出すには、甲状腺における放射性ヨウ素の放射能レベルを突き止めなければいけないはずである。ということは、実際には本当の意味での甲状腺測定は行われなかったということだ。これは福島の住民にも知られている事実である。福島で甲状腺スクリーニング検査を行っている鈴木眞一教授は、2012年11月10日に福島市で行われた一般説明会ですでに、実際に測定を行っていないのに、どうしてチェルノブイリよりずっと値が低いなどと主張できるのか、と非難されている。


2013年3月17日日曜日

原子核物理学者のハインツ・シュミタル氏のインタビュー


ドイッチェ・ヴェレ 2013年3月12日付
ドイツのグリーンピースのメンバーで
原子核物理学者のハインツ・シュミタル(Heinz Smital)氏のインタビュー
Deutsche Welle 12.03.2013
Smital: „Immer noch stark kontaminiert“
本文はこちら:http://www.dw.de/smital-immer-noch-stark-kontaminiert/a-16655560


フクシマの原発事故から2年、ドイツのグリーンピースが新たに放射能測定を行った。線量はまだとても高い。核物理学者のハインツ・シュミタル氏がドイッチェ・ヴェレとのインタビューに応じ、福島近辺での危険での生活がいかに危険か、語った。
シュミタルさん、先日福島とその近辺で放射能測定をなさいましたが、どのような結果に達しましたか?
シュミタル:放射能は今もまだとても高いです。福島市には約30万人の住民がいますが、ここには子供たちが遊ぶ公園でもまだ強く汚染されているものがあります。測定値は地面で測ると、原発事故前の200倍です。住民が揃って避難したゴーストタウンで、かなり大がかりに除染作業が行われましたが、そこでは放射線量が下がっていないことを私たちは確かめました。放射線はしっかり地面に入り込んでいるのです。除染作業で20%から50%はよくなったかもしれませんが、それでも線量は高く、とても人が普通に住めるような状況ではありません。
それでも住民がそこに帰還することになっているようですが。
そうなのです。私たちは、この住民が避難した地域に集中して、そこでかなりのエネルギーを使って放射能を森や道路から減らすように努力するその試み自体を批判しています。これだけの手間をかけるなら、すでに住民が住んでいる場所でおこなうべきです。そこには今も住民が住んでいるのですから! そこでこそ、放射線量は低くなるべきです!  それで人々たちもずいぶん助かることでしょう。人々が放射線量の高い地域に帰って、普通の生活が可能だ、ということには非常に懸念があります。
福島の人々はどのように反応しているのですか?
私たちはいろいろな人たちとそこで話をしました。そして日本人がとても土地に対し深い結びつきを抱いていることを学びました。彼らはそこで何世代にもわたって暮らしてきたのです。でも、日本人はまた同時に、とても強い。彼らは泣き言はいいませんが、しかしとても苦しんでいます。できれば前の生活を取り戻したいと誰もが思っている、しかしそれができないのです。
住民たちは官庁から充分に健康に関するリスクについて説明を受けていますか?
ここでは健康に対する危険性はかなり軽視されています、それは克服できない課題だからでもあります。その地方全体、山々、川、海岸をすべて除染することなどできません。今試みられていることは、住民たちに、高度な放射線を受け入れさせることです。そして彼らを不安にさせないために、影響はない、と言っているのです。そういう意味において、原発事故の被害者たちは、再び被害者になろうとしているのです、放射線量に高い場所に住むことを余儀なくさせられる、ということにおいてです。
では、日本政府がこれらの人々たちに充分なことをしてないというお考えですか?
総合的に見て、人々は見捨てられています。賠償金をもらうために、何十ページもの申込書に記入しなければならないのを、私は見ました。ほとんどの人たちは、その形式上の手間があまりにかかりすぎるため、あきらめてしまうのです。粘って闘い続ける力も彼らにはありません。私は、弁護士を雇ってこの2年間に1万5千通の手紙を書いたという男性に会いました。しかし、他の人たちにはほとんど、こうした力はありません。それをうまく利用しているのが東電で、こうして賠償金の支払を節約しているのです。
福島で普通の生活が可能になるまで、あとどれだけかかるのでしょうか?
チェルノブイリでの原発事故後の経験があります。何十年もたった今でも、線量はほとんど減っていません。線量は、主に自然の放射性崩壊で減少します。ということは、放射線は30年後に半減するということです。福島地方はこれから数十年はまだ高線量が続くとみなさなければなりません。これほどの規模の事故を制御しようとするのが、いかに見込みのないことか、これでわかります。原子力というものがどれだけ恐ろしいものかということもこれでわかります。ドイツが原子力から撤退したことは正しいことであり、原子力には世界中で終止符を打たなければならないこともです。
ハインツ・シュミタル(Heinz Smital)氏は原子核物理学者で、ドイツ・グリーンピースの原子力専門家である。

2013年3月15日金曜日

医師団がWHOの隠蔽行為を非難


ドイッチェ・ヴェレ(Deutsche Welle)2013年3月11日付
医師団がWHOの隠蔽行為を非難
Ärzte werfen WHO Vertuschung vor 
本文はこちら:http://www.dw.de/%C3%A4rzte-werfen-who-vertuschung-vor/a-16653046

フクシマ原発事故後、日本でのガン発生数が増加している、と核戦争を防止する国際医師の会は語る。しかし世界保健機関は先日、警戒の解除を宣言したばかりだ。

最初の兆候を与えたのは出生の空白である。日本では2011年末には、統計から期待される数よりも出生件数が約4000人分少なかった、と語るのは核戦争を防止する国際医師の会(IPPNW)のメンバーで小児科医であるヴィンフリット・アイゼンベルク氏(Winfrid Eisenberg)だ。「被ばくが原因でたくさんの胎児が胎内で死んでしまったと予測されます。胎児は放射線に一番弱いのです」。エイゼンベルク医師はフクシマ事故の、ことに子供たちにとっての結果がどれほど劇的なものであるか、語る。事故後充分にヨー素剤が配られなかったため、福島県の児童の3分の1で甲状腺に結節やのう胞が見つかっている、と彼は言う。このような変形は成人にはあまり害がないことが多いが、子供たちにとっては甲状腺がんの前兆である場合が多いという。「これから数年のうちにもっとガンの発生件数が増加するものと考えられます」。

WHO:「福島県外では危険性は高まっていない」

WHO世界保健機関ですら、福島の事故原発周辺の高線量地域ではガンの発生率が高まっていることを認めた。しかし、日本のそれ以外の土地に対しては警戒を解いている。WHOの代表は「この地方以外ではガンの発生率が高まるとは思われない」と声明を出したのだ。しかし「この報告は、事故の結果を過小評価するために行われている」と、エイゼンベルク氏は考えている。IPPNWでは、直接被害を受けた地域以外でも危険性がどれだけ高いか算出した。原発事故を原因として、日本では6万から12万の人間がガンになる可能性がある、という。それに加わるのが直接、事故の被害の後始末に携わる1万8千人の労働者で、彼らの発病率はきわめて高い。「日本はとても広い面積で被害を受けているのです」と結論付けるのはIPPNWの医師、ヘンリク・パウリッツ(Henrik Paulitz)氏だ。

原子力機関と「不利な契約」でさるぐつわをはめられている?

原子力に反対している人たちは、WHOがもともと偏向的だと考えている。それは、WHOが国際原子力機関と協定を交わしているからである。この協定で、どちらの団体も、「どちらかの側が実質的な利害を持つ、または持つ可能性があるテーマに関しては、必ず相手側に助言を求める義務がある」。原子力批判者はこれで、WHOの放射線のリスクに関する報告に対して、原子力機関が実質的に拒否権をもっているのと同じだ、と解釈している。IPPNWのメンバーであるエイゼンベルク氏はこれを「さるぐつわ契約」と呼んでいる。WHOは、この契約が自分たちの組織の独立性を制限するものではないとしている。

IPPNWは冷戦中にソビエト連邦とアメリカの医師たちによって設立され、原子力兵器の廃棄、紛争防止、原子力エネルギーからの撤退を求めて運動している。昨年、IPPNWでは原発事故を招いたのは津波ではなく、地震だったということを結論付ける技術的研究を発表した。だからこそ、この執筆者たちは次の結論を述べている:「原発は、地震が起きるほかの地域でも極めて危険である」と。

2013年3月12日火曜日

図書紹介『闘う区長』


『闘う区長』
保坂展人 著 集英社新書刊 700円+税

保坂さんは教育のなかで起こる不条理問題を提起し、裁判で闘い、著作もだしてきた後、1996年から3期11年間、衆議院議員として国会にいた人だ。社民党の衰退に伴って議席を失ってしまった。私たちの国会行動の窓口になってくれていたので、お世話になった人なのだ。その後もずっと国会での活動を目指しつづけてきたという。それが、2011年の3・11の大地震のあと、遮断された交通網をくぐっての東北支援に奔走し、帰京したすぐそのあと、世田谷区の区長選にと請われ、いきなり選挙戦に突入、ということになった。それまでの国選でオカネは使い果たしていたし、準備期間もなかったが、区民の中からの熱烈な応援をえて、4月24日に思いがけず当選してしまったという。

世田谷は人口88万人で小さい県に相当するくらいの区。前の区長は28年間もその席にいた。議会で彼の支持派は50人中10人でしかなかった。長年にわたって敷かれたレールをすべて否定しては何事も進まない、と判っていた新区長は95%は従来どおり、あとの5%は私の考えで、と宣言してスタートしていった。国会議員時代に養われた政治の勘、経験、人脈などが、有効に発揮され、5000人に及ぶ区の職員と無駄な摩擦を起こさず、お互いに知恵を出し合える道を作っていけたようなのだ。若手のグループからの新企画が軌道に乗ったり、双方向発信の「区長のメール」欄をホームページに設けたり、学校給食の食材の放射線量を測定できるようにしたり、と次々に5%が動きはじめる。

国会ではたくさんの質問が出されても、各閣僚がそれぞれの分野で答えるが、区では区長一人ですべてに回答を出していかねばならない。その責を軽減するために副区長をつくる。外部の専門家などでなく、区職員のなかから建築・土木分野から、福祉分野からと2名を選んだ。よけいな波風を立てずに、より効果的な仕組みにしてゆく。曖昧な妥協ではなく、決断すべきときには時間をかけずにさっさとする。行動が柔軟で、決断力もあるように思える。

区長立候補時の最大の公約は「脱原発」で、そのためにも知恵を砕いてあれこれと進めている。東電の値上げ通告に抗議だけでなく、ブログを使って抵抗したり、PPS(新電力)の導入を図ったり、照明器具を変えたり、小さなことでも工夫実行する。世田谷区にたくさんあるものは、「屋根」だそうで、太陽光発電の普及を画策している。PPSの電気が需要の増加で不足がちだが、被災地相馬市などで自然エネルギー基地を作って東京へ、というような案があると知って、「産地直送エネルギー」構想も模索している。

彼は「日常のひと時は、住民は首長に命を預けているつもりなどないだろう。けれど、あの3・11の状況を考えればよく分かる。いざなにかが起きた場合、首長の判断が、人々の命や安全に大きな影響を及ぼすことになる。」と言っている。欲に目が眩んでない首長を選んだ世田谷区民に敬意を表したい。そして羨ましく思う。

(凉) 
反「改憲」運動通信 第8期18号(2013年2月20日発行、通巻186号)

図書紹介『阿武隈共和国独立宣言』


『阿武隈共和国独立宣言』
村雲司 著 現代書館刊 1200円+税

昨年暮れの選挙の結果が覚悟をしていたとはいえ、あまりの数字にすっかり落ち込んでしまった。その国の民度に相応した政府しかもてない、とは幾度も思い知ったことではあるけれど、ずっとつづけてきた「もの申す」行動が無慚に踏みつけられた思いで、立ち上がりにくい年迎えだった。

この国には居場所がない、と絶望的になっていたとき、書店で目に入ってきたのが、「…共和国独立宣言」の背表紙だった。えッ、なんかいい国だったら私も住民にしてもらえないだろうか、と飛びついた。この列島国は、西欧のように国境を走り抜けて脱出する思想がない。学生時代の怠惰が祟って、ナニ語もカニ語もできない。できたとしても、見回すところ是が非でも行きたい国もない。政治や放射能から一切目をつぶって道楽に走るしかない…なんてヤケになっている矢先の「独立宣言」である。著者名をみれば、運動をつづけてきた仲間の一人ではないか。

「独立国」構想のスタートは、新宿駅の「スタンディング」からで、この行動ももう10年になるという。「スタンディング」のことを知らないでいた人にはこの本をぜひ読んでほしい。各地で取り組まれている住民の反権力運動などでも、独自の工夫で生まれた抗議の表現方法を記録や口伝えで知ることができる。真似たり真似されたりして行動を豊かにしてきたものだ。雑踏の新宿駅、かつてベトナム反戦のフォークソングで賑わい、弾圧された忘れられない特別の場所に、ただ黙ってプラカードを持って立つ。1時間と制限された中で立つ。この形を想像するためにもこの書を読んでほしい。毎土曜日、10年だ。

この「スタンディング」の仲間の間から生まれたものに、金曜日毎に行われる「官邸裏行動」がある。「前」ほど知られていないが、官邸にはぐっと近い。ごく少人数で、オマワリのほうがずっと多いくらい。そこで会う「スタンディング」の人や、長年「反原発」をやってきた仲間と、「人数が減ってきたね、私たちはしつこいね」と語り合っている。

肝腎の独立国に関しては、「極秘事項」なのでここでは多くを語らないでおくが、ホンの少し。この国民になるには年齢制限がある。私はそれにはゆうゆう合格する。なにしろ阿武隈は放射能値が高いから、若い者は入国できない。憲法は日本国憲法の第一条を除いたものをそのまま使う、という。国歌は「夢であいましょう」、国旗は「一銭五厘の旗」(国というと、ウタやハタが必要なのかな?)。

胸がすくのは宣言が日本のマスコミ陣を忌避して、「日本外国特派員協会」でおこなわれることだ。このほかにも、「殆どの場合、被害者」であるわれわれの抗議行動を監視、弾圧してきた警察・公安警察に対する怒りや、不審が各所に満ちていて、長い年月、さまざまの行動を懲りずにつづけてきた者どうしに判る怒りがちりばめられている。

結論として、誰かの造る国ではなく、自分で、自分が住みよい国を造るべきなのだ、というのが私が読後到達した地点である。さて……。

(凉) 
反「改憲」運動通信 第8期15号(2013年1月16日発行、通巻183号)

「国旗に一礼しない村長」で考える


「国旗に一礼しない村長」で考える


去年(2011年)の3・11直後からノダやエダノらが、記者会見などで壇上に昇るとまず、飾ってあるヒノマルに姿勢を正して一礼するのを、テレビでたくさん見せられた。その行為を見慣れることができないで、毎回不愉快になった(毎度年寄りらしく声までだした)。単なる布キレや、写真に礼をしなければタダではすまなかった時代を経験した者にとっては、あの行為は悪夢のように感じられる。戦争に負けて、ああいう意味がないことを強制されない時がきたことを、子ども心にもすっきりうれしかった。

それがいつのまにか、同じことをしているのを見るようになったではないか。自分も子どもも学校に行かなくなっているし、役所にも所属していないから、まだあの姿勢を強制されてはいない。二度と強制されたくないあの動作を、大臣や首長というのは、当然のようにできるようになるのか。しかしそのうち、「オイ、コラ!」と街中のヒノマルにお辞儀しないことを咎められるようなときが来るのではないか、と予感されてならない。祭日にヒノマルを各家ごとに出さないと町内会から叱られる時代がきたらどうしよう。

今年の(2012年)9月21日の『朝日新聞』(性懲りもなくまだとってる!)朝刊のオピニオンという欄に、長野県上伊那郡中川村村長・曽我逸郎さんのインタビュー記事が「国旗に一礼しない村長」のタイトルで掲載されているのを見つけ、うれしくなって切り抜いておいた。村議会で「国旗についての認識は?」との一般質問を受けた、ということだから、かねて、村長が議場でお決まりの「ヒノマルに礼」をしないでいることを問題視した議員がいたということだと思える。答弁の一部が掲載されているので、長めの引用となるが、お許しを。
私は、日本を誇りにできる国、自慢できる国にしたいと熱望しています。日本人だけではなく、世界中の人々から尊敬され、愛される国になってほしい。しかし現状はまったくほど遠いと言わざるを得ません。
一部の人たちが、国旗や国歌に対する一定の態度を声高に要求し、人々をそれに従わせる空気を作り出そうとしています。声高に主張され、人々に従わせようとする空気に従うことこそが、日本の国の足を引っ張り、誇れる国から遠ざける元凶だと思います。人々を従わせようとする空気に抵抗することによって、日本という国はどうあるべきか、ひとりひとりが考えを表明し、自由に議論しあえる空気が生まれ、それによって日本はよい方向に動き出すことができるようになります。
誰もが考えを自由に表明しあい、あるべき日本、目指すべき日本を皆で模索しあうことによって、誇りにできる日本、世界から敬愛されて、信頼される日本が築かれる。
日本を誇りにできる国、世界から敬愛される国にするために、頭ごなしに押しつけ型にはめようとする風潮があるうちは、国旗への一礼はなるべく控えるようにと考えております。
また、インタビューで答えている中に、
「私が国旗に礼をしない理由を端的に言えば『こういう場では礼をしなさい』『それが大人だ』という雰囲気がいや、ということです。目に見えないプレッシャーは危険な気がします。『まあいいや、これぐらい』と従うことがいやな空気をつくり、長い目で見たら怖い結果につながりかねない。……」
 「憲法前文で『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する』とし、『国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成すること』を誓ったわけじゃないですか。それをなおざりにし、周辺国の脅威をあおり、軍事力を増強し、さらには沖縄県民が基地問題で迷惑をこうむっても我慢してもらおうという姿勢です。『そうは言っても……』と、現実を前に妥協してしまっている。問題点と理想の間をどう埋めるかという努力をしていないのです。」
村のホームページに掲載した主張に対しての批判について、
「……提起した問題そのものについてより、むしろ『公私を分けろ』『立場をわきまえろ』といったものが多いんです。匿名が目立ちますね。国旗の件については『敬意は和を生み出す尊いもの』と書いてきた方がいました。それは、1937年に当時の文部省がつくった『国体の本義』にある『和』の考えに似ている。それぞれが身分や立場をわきまえ、分を忠実に守ることによって、美しい和が生まれると書いてあります。」
「広告会社で働いていたころ、しきりに『和』を口にする上司がいました。批判されるとか、部下からいろんな意見が出てくるのがいやな人でした。ダイナミックな変化が怖い人ほど『和』と言うんです。」
彼はもと「電通」社員であった経歴の持ち主で、「学生時代に、原発施設での被曝労働者の話を小耳にはさんでいたことがあります。そんなものの宣伝をするわけにはいかないと思ったんです。だれにも越えられない一線があるじゃないですか。それをしてしまったら、自分を許せなくなってしまう気がしたんです」と、電力会社の担当になるのを断ったいきさつが紹介されている。その後すぐ辞めたわけではなさそうだが、やがて電通を退社したらしい。どういう経過があって中川村の村長さんになったのかはわからないが(長崎県出身)、活動家でも、政党人でもないようなのだ。

主張をみると、日本国が誇るべきものになってほしいとの願いがあるみたいで、いわば「愛国者」の一人といえよう。私は広い意味に取っても、「愛国」「国を誇りに思う」という考えは嫌いだ。でも今、そのことは少し置いといて、彼が言う、「ひとりひとりが自由に考えて」をたいせつにしたい、だから、押しつけて従わせるのはダメだ、と主張していることに賛意を呈したいと思い、ご紹介したくなった。

よその首長は公の場で高い所に登ってハタがあると、当たり前のように礼をするのが圧倒的多数だろう。内心、「国を象徴するハタだから、それを尊び、忠誠を誓います」なんて考えてはいないだろう。ハレの場所に立てる自分を誇りに思い、いい気分の真っ最中ってところではないか。そういう慣例を破って、曽我さんははっきり「礼をしない」と行動で示し、村のホームページにも意思表示している。その姿勢は、あっぱれな村長さんで、やはりうれしい。

フクシマの事故以降、大小の首長の態度に不審を抱かざるをえないと感じることがちょくちょくある。率先して原発を誘致した張本人なのだから、当然の行動かもしれないが、放射能値がまだ危険範囲なのに、村民、町民に帰村・帰宅をしきりに促すのは何故か。子どもの健康診断の結果を保護者に全開示しないのは何故か。そもそも放射能値の数字のごまかしがどうして行えるのか。これこそ「大罪」ではないのか。国からの指導・命令ももちろんあるだろうが、地元の人を守らないで何のための首長なのか。たぶん、もし村民が戻らなかったら、村がなくなり、自分の晴れの舞台がなくなり、折角のいい椅子に座れなくなってしまうことには我慢ならないからではないかと疑っている。情報に拠れば、フクシマ辺の首長は東電の関係者、親類をもっている者が多いという。事故を小さく小さく見せようとの魂胆の底の暗闇は小さい卑しい根性の巣なのかもしれない。

卑しいといえば、なにかのオープニングなどで、ズラリと並んだお歴々が銘々鋏を渡されて一斉にテープをカットするシーンがテレビによく登場する。公のハコモノ落成式などでは必ずその地の首長が真ん中に立つ。私は「式」と名のつくものは全部お断りだから、一人でやればいいというのでは元よりないが、制服のような黒服を着た男どもが何人も並んで数センチずつ紅白のリボンをカットするなんて恥ずかしい、屈辱的だ、と思わない神経には呆れる。あまりにも破廉恥で幼稚な行動ではないかと、見ている側の方が恥ずかしい。こういうヤツラはハタにお辞儀するのも誇らしいわけだ。

私が好きなような人が政治家になることは殆ど考えられない。でも歴史を播けば、こういう人の村で生きたい、と思える人物は案外いるみたいだ。昔の小学校の終身の教科書に「稲むらの火」という、津波来襲を村民に報せるために、高台に住む村長さんが、刈ったばかりの稲に火をつけて、それを見た村人が火を消すために村長さんの家を目がけて登ってきて、皆助かった話が載っていた(この話は事実とは違うという説もあるが)。

最近読んだ帚木蓬生さんの『水神』では、自分の生命を賭けて筑後川に堰を作り、水不足の苦労から農民を救う庄屋さんたちの経緯を知った。費用は庄屋全員で分担、もし失敗したらアレに架けるぞとの脅しの磔台が庄屋の人数分、現場に揚げられている怖ろしい話だった。労役にでた農民は磔台を庄屋さんが見守ってくれている姿と思おうとして、辛苦に耐えたということだ(成功して胸撫で下ろしたが)。

首長ではなく県議であったが、あの田中正造さんもいる。足尾の人々と自然をまもるために闘いとおし、それでも銅山の公害を止められず、県議を辞して天皇に直訴状を書いた。その行為はあの時代文字通り生命がけのことだ。

そんなに遡らないでもモト福島県知事だって、フクイチの危険に途中で気がついただけでもよかったし、三春町長さんはフクイチ爆発のあと、独自の判断でヨーソ剤を配布したと聞いている。地域のためにがんばります、と言って当選しても、してしまえば自分の栄誉のために地域を使うようになる人が圧倒的に多い。

ハタに当然のように礼をするのが首長の栄誉と義務になっている中、「私はやらない」ときっぱり言う中川村村長曽我さんは、やはりすごいと思う。他の「長」からは聞いたことがない。

もうじき選挙で、噂ではいちばんなってほしくない人が国の首長になるそうだ。この雑誌が形になるときにはもう結果がでている筈。憲法を変え、軍隊を組織しなおし、教科書を自分の好みのものにすると公言している。ハタやウタがもっと蔓延るかと思うと、早く死にたい。イヤダイヤダ。
(凉)
『運動〈経験〉』36号(2012.12)より

2013年3月10日日曜日

さよなら原発ベルリン


「さよなら原発ベルリン」での
Thomas Dersee(トーマス・デルゼー)氏の演説

放射線防護専門誌「放射線テレックス」を発行(去年は日本を訪れ市民測定グループを支援して、その報告を放射線テレックスでも発表、その報告の拙訳は2012年12月に当ブログに掲載)しているThomas Dersee(トーマス・デルゼー)氏が、2013年3月9日にベルリンで行われた「さよなら原発ベルリン」のデモで短い演説を行ったが、その際通訳する光栄に恵まれた。短い中に公共のモニタリングポストをめぐる問題や児童の甲状腺異常、除染など、今日本が抱える問題とともに、暖かいメッセージがこめられているのでここに発表したい。ベルリンでのデモの様子については、ベルリン在住のジャーナリスト梶村太一郎氏のブログをご覧ください(http://tkajimura.blogspot.de/)(ゆう)



お集まりの皆様、友人の方々


日本の福島県で原子炉事故が起きたのは2年前のことですが、
今その福島を訪れると、福島市の駅前には、公共のモニタリングポストが立っています。このベルリンでよく見かけるパーキングメーターと似た様な形で、太陽電池がついていて、日中は現在の放射線測定値がディスプレイに表示されます。

しかし、自分でガイガーカウンターを持っている人は、それよりも公共のモニタリングポストの方がずっと低い線量を表示するので、不思議に思います。そして、どうしてそうなのだ、と尋ねると、これは別に特別なことではなくて、どこでもそうなのだ、という答えが返ってきます。日本の市民イニシアチブや地方自治体の代表などがシステマチックに検査した結果、わかったことです。

始め、アメリカの会社が試験的にモニタリングポストを設置したところ、ずっと高い放射線量が表示されたそうです。「これでは値が高すぎる、変えることはできないか」と日本の環境省が文句をつけたところ、その会社はこう答えたそうです:「いや、それはできない、モニタリング装置というのは測定するためにあるのだから」と。そこで、今度はアメリカの会社に代わって、モニタリングポストの設置が日本の会社に発注されました。日本の会社は環境省の要望に対し、ずっと理解を示したというわけです。

官庁はこのようなモニタリングポストを、3000台以上、福島県全体や近接する地方に設置しました。これらのモニタリングポストが公の線量測定の拠点となっており、平均で、実際の放射線量の3分の1から2しか、表示されません。これは日本国民にはかなり一般に知られている事実です。それなら、どうして官庁はこんなことをするのでしょうか?

このモニタリングポストが出す測定結果は、WHO世界保健機関などの国際的な機関に提出されます。これを受けてWHOは先週、「日本国内外の一般市民に対して予測されるリスクは少なく、ガン発生率が目に見えて増加するとは考えられない」という声明を出しています。「線量がもっと高い地域に限り、わずかながら増加が予測される」、そうも言っています。

しかし、WHOの人たちももちろん馬鹿ではありません。彼らだって、その測定線量が正しくないことは知っているのです。でもどうしてこんな汚い手口を使うのでしょうか?

日本の市民を安心させようという魂胆だって、そこにはあるのかもしれません。しかし、彼らがこのようなメッセージを届けたい本命の相手は実は、海外にいる私たちのような人間なのです。彼らは、私たちにこそ信じさせたいのです、原子炉事故があったがそんなにひどいことはない、そんなに急いで原発を止める必要はない、とそう思わせたいのです。たとえドイツやフランスでこのような原発の事故が起きたとしても、どうにかなる、と、そう言いたいのです。

日本の人々には、事実はもっとはっきりしています。事故が起きてから2年経つ今も、16万人以上の人々が、避難所、仮設住宅などで暮らしています。この人たちのほとんどが、高線量地域からの避難民です。昨年は甲状腺の検査が約8万人の児童・若者を対象に行われましたが、そのうち、40%以上で甲状腺の異常が見つかっています。そして今まで検査を受けた子供たちの数は、まだ半分にも満たないのです。

これまで151人の児童が二次検査を受けました。そのうち、10人に甲状腺がん、または甲状腺がんの疑いが見つかりました。甲状腺がんというのは、通常では100万人の児童に一人か二人しか発生しないものです。

昨日公表されたところでは、福島県からかなり離れている青森県、山梨県、長崎県でも、検査を受けた子供たちの60%に結節やのう胞がみつかっています。

児童のほとんどは、2年後でないと、再検診が受けられないことになっています。それは、フクシマの研究チームの責任者が説明したことですが、必要となる小児甲状腺の専門家をまずこれから養成しなければならないので、あと2年かかる、というのが理由だそうです。

公の政策は、高線量から避難してきた人たちを、また故郷に戻そうというものです。そうなれば、帰る人たちはみすみすモルモットになってしまいます。

また、多大な労力とお金が、生活環境を除染する作業に費やされていますが、これはやってもやっても終わりのない作業です。周りを取り囲んでいる山や森から、どんどん新しい放射性物質が住宅地域に舞い落ちてくるのですから。それに、放射性物質に汚染された土はどこに持って行けばいいのでしょうか?除染作業をしても、放射能を別の場所に移動するだけであって、なくすことはできないのです。

技術の進んだ日本のような国なら、こうした問題も乗り切れるはずだ、と思うのは、単なる希望的観測に過ぎません。官庁が最初に行ったことは、被ばく線量限度を切り上げておいて、これでも健康には問題がない、と主張することでした。

現在では、100以上の市民イニシアチブグループが独自の測定器を備えるまでになりました。彼らは、食べ物を通じて放射性同位体を体内に取り込むのを少しでも低く抑えられるようにと、食品の放射線汚染を測定しています。または各地での除染の試みをチェックし、人体軟組織の等価線量やホールボディカウンターによる全身の被ばく線量などを測定しています。そして彼らは、高線量の地域から子供たちを一時的にずっと南の方や北の方に疎開させる企画なども組織しています。

日本にこれだけ自分たちの意志で行動している人たちがいるというだけで、私には希望がわき、状況はひどくてもこれなら大丈夫だろう、と思えるのです。この市民たちは、できる限りの支援が与えられて当然です。私たちは、募金という形で支援することができます。そしてことにドイツでは、原子力などなくても平気だ、ということを示していかなければいけません。

御拝聴、ありがとうございました。






2013年1月1日火曜日

米海軍兵が東電を告訴


2012年12月28日付TAZ紙
フクシマの嘘
米海軍兵が東電を告訴

友人が送ってくれたドイツのTAZ紙の記事だが、読んでいて「京」という単位を調べなおさなければならなかった。324京円、という数字が金額として頭に浮かべられる人間はいるだろうか? それでもいまだに「原発は安い」という嘘を平気で並べ、日本の経済に原発は欠かせない、などとのたまう人間集団を、なぜまた日本人は選挙であんなに選んだのだろう? 不愉快で、できることなら耳をふさいだまま聞きたくない話ばかりで2012年も終わった。今年も光は見えてこないのだろうか。
(ゆう)

本文はこちら: http://www.taz.de/!108149/

東電は2011年、アメリカ海軍士官たちを騙し、放射線被爆について不正の報告をしていたということである。

ベルリン:米海軍士官9人からなるグループがサンディエゴの裁判所で、フクシマ原発事故を起こした原発操業社である東電を相手に訴訟を起こしたことを、イギリスの公共放送局BBCが伝えた。

これらの海軍士官のうち、8人が原子力で動く航空母艦「USSロナルド・レーガン」に配置されていたが、この告訴で彼らは東京電力に対し、1千万ドルの損害賠償金と、一人につき3千万ドルの違約金を払うよう求めている。

彼らは2011年3月に起きた日本の太平洋沿岸沖の地震と津波の後行われた支援活動(トモダチ作戦)に参加していた際、事故を起こした原発から出る高線量の放射能にさらされたとしている。

訴訟の理由として彼らは、東電が当時の状況に対し真実を伝えなかったことを挙げている。人間に対し危険な放射線量ではないという印象を東電が与えていたという。

この告訴は、東電に出された数々の損害賠償請求の最新のものとなる。東電は請求金額の合計がいまや324京円(1京は兆の1万倍)に達したとしている。