2017年7月25日火曜日

ドイツの

「最終処分場サイト選定法」に対する

批判記事

ドイツでは今年3月、高レベル放射性廃棄物の最終処分場サイト選定に関する法律の改正法令が成立した。よりによって連合政権には入っていない、チェルノブイリ後、脱原発を求める政党として始まった緑の党の議員も入って「高レベル放射性廃棄物処分」委員会が作られ、連邦環境省が指揮をとりながら共同でコンセプトを作り、この法案ができたのだが、それはこれまでドイツの核・原発政策とあらゆるレベルで闘ってきた運動家、活動家にとってはまったく受け入れがたい内容であることが明らかになった。緑の党は、連合政権に携わっていた時もあらゆる政策決定で期待を裏切ってきたが、今回このような法案を一緒になって作り、あたかも画期的で責任持てる計画決定を共同で実現させたかのように自画自賛していることで、私は完全に緑の党に幻滅した。魂を売り渡し、緑の党の政党としての正当性、根拠はこれで彼らが自ら葬ったと言えよう。それにしても、どうしてこの「最終処分」という概念があたかも当然であるかのようになってしまったのか。人間は一人一人は1世紀も生きず、その中で大人として責任もって言動できる時間はたったの50年ほどであるはずなのに、その人間がどうして「百万年」恐ろしい毒のごみを管理する話ができると思うのか、「最終」処分できると思えるのか、その自己過信を疑わないのはなぜなのだろうか。二年ほど前に「世界で一番安全な場所」という最終処分場を探すということの愚かさを明らかにするドキュメンタリー映画を見たが、また改めて、それを見た時の感情がよみがえった。この最終処分場サイト選定法に対する批判記事が放射線テレックスの4月号に掲載され、それが難しいながらもとても的を得た分析だったので、それを、この「愚かな」(と私が思う)ドイツの「高レベル放射性廃棄物処分委員会」ほどのコンセプトも持っていない日本のために訳したいと思った。 (ゆう)


Strahlentelex Nr. 726-727 vom 06.04.2017
放射線テレックス2017年4月6日号
Atommüll „Unfug für Millionen Jahre“ von Ralf Kusmierz


百万年の戯言

2017年3月にドイツ連邦議会と連邦参議院は「発熱性放射性廃棄物の最終処分場のサイト選定に関する法律その他の法律の改正法令」を可決した。政治的議論においてはこれまで、放射性廃棄物を保管するサイト選定におけるやり方に関してしか批判されず、その方法自体の意味については問われてこなかった。恣意的に選択された「深い地層での最終処分」というコンセプトはしかし、熟考されずに当然のものとして受け入れられており、そのほかの方法の可能性については問われることがなかった。しかし、放射性廃棄物や有毒廃棄物を深い地層に処分する方法は世界中ですでに失敗しているか、数千年後に現れるであろう問題、または始めは見当もつかなかった大問題を数年後に明らかにするに違いないことが分かっているのである。

Ralf Kusmierz報告

かつてはドイツでの狂気というのはたった千年単位のものだった。今日ではそれが、民主的に選挙で選ばれた政治家が簡単にその上をいく。ドイツの連邦議会は、(発熱性)放射性廃棄物の最終処分場のサイト選定に関する法律」を可決したが、この「最低百万年は環境から遠く離れた場所で貯蔵する」責任を国が持てると固く確信しているのである。しかしながらこの法律の真実は、「ゴアレーベンにはしないつもりだが、万が一可能性がないとは言えない」というただし書き付きの「固定観念・予測なしで結果をオープンにした」税金埋没法に過ぎない。

それにしてもこれらお偉いさんたちの中で、百万年の帝国を計画するということの愚かさに気づいたものは誰一人いなかったのだろうか? 「誰もまた掘り返すことができないくらいに深く掘って埋める」という原則に沿って行われる最終処分というあり方が本当に採用できるかどうか、一度でも自答してみはしなかったのだろうか? 
放射性廃棄物はごみ処分場に保管されるべきではなかったのか? 答えはこうだ:おそらくそうだろう。ただ、我々は正確にはわからない。ごみ処分場という考えはまず何より、「簡単」である。喉元過ぎれば熱さを忘れる、だ。廃棄物管理の三原則は次の通りだ。予防、リサイクル、処理、この順番通りに行うのである。したがって、この原則を放射性廃棄物にも適用するならば、最初の2つの原則を本気で行うなら、処分するものが残るだろうか、自問できるはずだ。

物理的に厳しく捉えれば、核技術設備から出される放射性廃棄物は、量が多いゆえに問題があるわけではない。低・中レベル放射性廃棄物の「莫大的な量」は、例えば放射性物質で汚染された日本の土地などでも取り出されるが、実はそこに含まれている放射性同位体自体の量は驚くほど少ない。そして、もちろんどの放射性廃棄物も、再処理が可能だ。つまり放射性が程度かほとんど放射線に汚染されていないほとんどの物質と、わずかだが高度に放射性であるグループとを分離することができるのだ。ただ、これを費用が掛かるから(または面倒であるから)しないだけである。このようにして(おそらく何度も測定するのも『採算が合わない』ということで)放射性物質に汚染された雑巾は、焼却する代わりに放射性廃棄物処分場行きのドラム缶の中に入れられることになる。焼却すれば、放射能は灰の中に濃縮されるか、それを排気フィルターで取り込むことができるはずでも、である。

「高レベル」放射性廃棄物と高レベルでない放射性廃棄物との違いはわずかで、ことにその定義だけが異なっている。高レベルの放射性廃棄物には、放射性同位体が高度に濃縮しており、かなり発熱する。通常の輸送用容器では約15トンの積載で、条件によっては50キロワット以上の熱出力である。これは比較すれば、1回のシャワーで必要な温水を作るのに必要な熱出力のほぼ二倍だ。こうした、1キログラム当たり約3ワットという比較的控え目な熱出力は、スポーツ選手や体を使って仕事をする労働者が体を温めて体熱を発する(1キログラム当たり約2ワット)熱出力とほぼおなじエネルギー密度である。だから、もしこれを「最終処分」した場合には、この熱が岩石から外へ放出される必要があるため、問題となるのである。でなければ廃棄物を入れた容器はどんどん熱してしまうからだ!

いい知らせはある:高レベル放射性廃棄物が発する熱は、主に半減期が約30年程度の比較的短い核分裂生成物から出ている。約10倍の半減期、つまり300年もたてばこの量も、すなわち放射能と熱出力も最初の値の千分の一になるので、50キロワットの代わりにたったの50ワットとなる。こうなれば技術的には一切問題はなくなり、ことにこの熱出力を使用済燃料棒1ダースまたはガラス固化体28本に分ければなおのことである。ここまで冷却が進んだユニットはまとめて包装し(鋼鉄管に入れて溶接またはコンクリートを入れ固める等)、ほぼどの場所でも貯蔵できることになる。発生する放射線はそれでも遮蔽する必要があり、またはこれらの廃棄物から最低100メートルは距離を置いて近づかないようにしなければならない。あるいは、これを再処理し、高レベル放射性廃棄物の量と体積をもう一度大々的に減らすことだってできるはずだ。

重要なことは、次の点だ:ここまで行けば、これは我々の問題ではなくなるということである。無責任な態度からではなく、本当に一世代先の最新技術がどのようなものとなるか、私たちには知ることができないからだ。50年後も人類はまだ、300年(あるいはそれ以上の)崩壊時間を待つしかない可能性もあるが、全く異なった処分方法の可能性が見つかっている可能性もある。またはこの放射性の「ゴミ」が好ましい原料となっていることだって考えられる。しかし同時に、犯罪的なテロ政権が統治する世の中となって、放射性廃棄物を兵器として悪用することだって考えられるのだ。

これらのことすべてに関し、私たちは現実的に関与することができない。私たちができる唯一のことは、放射性廃棄物をきちんと分類し秩序正しく次の世代に譲り渡していくことだけである。する必要がないのは、今放射性廃棄物の最終処分場を計画し、建設し始めることだ。このような最終処分場の完成を見届ける前に、世界は今と別のものになっているはずであり、そうすれば高い確率で使い物にならなくなるはずだ。

そして同じことがアッセの在庫目録の作成に関しても当てはまる。ここではいまだに秩序正しい状態にないのだから、放り込まれている廃棄物を取り出し、安全確保しなければならない。それも、現在計画されているよりずっと早く行う必要がある。第5坑がなぜ2019年末までに運転開始できるように完成することになっているのか、そしてなぜ2023年までに在庫の廃棄物をすべて取り出すと決められているのか、まったく理由はわからない。そして、その後それがすべてわかった上でなにを行うべきかは、その時点の責任者がその時点で決定していかなければならないことで、私たちには、そして今現在は、それはできないことなのである。




Strahlentelex Nr. 726-727 vom 06.04.2017
放射線テレックス2017年4月6日号
Greenpeace empfiehlt neue Zwischenlager anstatt falscher Endlagersuche
Rüge für ein untaugliches Endlagersuchgesetz

グリーンピースは、間違った最終処分場探しより、

新しい中間貯蔵施設を作ることを推薦する


役に立たない最終処分場サイト選定法に対する批判

今日に至るまで、私たちも、それからドイツ連邦議会の議員たちも、何千何万年にわたって放射線を放ち続ける廃棄物の取り扱いに関し、科学的に証明でき、誰もがわかるように出された複数のオプションの分析評価を持っていないし、従ってそうした評価をもとに、高レベル放射性廃棄物を長期に管理していくためのオプションをその中から政治的に選ぶということができないでいる。このような分析評価が行われていない限り、どのような試みも、それがどの場所であっても、社会的政治的意思決定をするという基本の人権を取り上げられたくないと思う市民の了承がこれで得られると思っているとすれば、非現実的だとしか言いようがない。このことを、2017年2月13日にドイツ連邦議会で行われた環境委員会の公聴会で「発熱性放射性廃棄物の最終処分場のサイト選定に関する」法案に対するグリーンピースの声明文としてMathias Edlerが言及している。この法案はその後2017年3月23日に連邦議会を通り、連邦参議院でも可決された。

「高レベル放射性廃棄物処分」委員会は、こうした処分方法を開発し調査するプロセスを省いて済まそうとしている、とEdlerは批判している。それなのに、委員会の報告書とサイト選定法は、ことに高レベルの放射性廃棄物を長期にわたって貯蔵するための最良の方法を探し出すために、できる限りのことをしてきたかのような印象を与えている、というのだ。しかしEdlerは、深地層での埋設処分以外の処分方法のオプションが同様の熱意で調査され、または開発されなければ、そんなことを主張し得ないはずだ、と批判している。だから当委員会のメンバー以外に社会的コンセンサスが得られなかったということも、ここで確認できるのだ、と彼はさらに続ける。

50年来、500メートルから1000メートルの深さの地層に埋設処分する方法しか研究されてこなかったことを、Edlerはこの法律の基本的な構造ミスであると非難する。委員会、専門の官庁省はどれも、彼らが贔屓扱いする深地層埋設処分というコンセプトに代わるほかの方法を探ることをシステマチックに抑圧してきた。そうした別の方法を探る代わりに、彼らの御用学者たちは、深地層での埋設処分方法をよしとする選択に関しては「基本的合意」が得られているかのように主張している。「最終処分が必要であること、それもできるだけ早く必要になること、しかもそれが深地層であるべきであること」という主張で成り立っているだけなのだ。それに取って代わるその他の複雑な処分方法に対する基本的な知識がないのに、どうやって「基本的合意」が得られるのだ、とEdlerは問う。知識がないのなら、それら異なった保管方法の社会での理解も得られないはずであり、従って、これまで誰も「コンセンサス」に至ることができなかったわけである、と彼は述べている。

この一連のことについてはすでに、委員会の結論が出される直前に、環境団体の会議ですでにReinhard Ueberhorst氏が「民主的放射性廃棄物政策」を求める意見表明で述べている。委員会は、深地層埋設処分に代わるどのような方法があるかを探る同じ程度の調査も、どれが新しい処分方法となりうるかという問いかけをさらに発展させていくという一番最初の、しかも重要な課題を自分たちでもしてこなかっただけでなく、それをどこでも促進しようともしないできた。しかし、これまでの深地層埋設処分コンセプトはすべて世界中で、失敗に終わっているか、あるいは、数年後にすでに大問題が出ることが明らかになっている。その大問題とは、数千年経ってから初めて出現しうるか、最初はまったく予見できないものだ。廃棄物を後から取り出し可能にするオプションで深地層埋設処分コンセプトを実現するというのは、今日行われている方法においては、どんどん疑わしくなっているとしか言いようがない。

「サイト選定法」という名称こそまさに、実は二次的でしかないはずのサイトの選択問題に最終処分問題を狭めようとしている証拠である、とEdlerは続ける。実際は、科学的に根拠づけられた異なる貯蔵方法の開発と評価こそが問題とされなければいけないはずで、高レベル放射性廃棄物を貯蔵するにあたり、比較的良い方のオプションを社会的に理解が得られる形で見つけていくためのものでなければならないはずだ。それがあって最終的にサイト選定が問題にされるべきだ。これまでゴアレーベンの深地層での処分という考えしか数十年来追ってこなかったドイツ連邦政府の最終処分場に関する政策は挫折したのであり、それを背景に、サイトに選定される可能性のある場所の市民が『放射性廃棄物には深地層の最終処分場が必要で、それに見合うサイト選択プロセスでどのように市民参加ができるかを明らかにすればいいだけだ』と考えていると想像しているのだとしたら、それはかなりナイーブだと言わざるを得ない、とEdlerは言う。それより市民たちは「こうした処分コンセプトと我々の住んでいる場所をサイトにしようという決定の根拠は何であり、どうしてそれが正当であるのか、ほかにどのような処分方法オプションがあったのか」と尋ねるはずである。この問いを満足できるように答えることができない者は、これからも市民たちの反対運動で挫折すると考えるのが妥当である。

Edlerはさらに、何の予備指定もなく「白い地図」状態から始めるなどと言いながら、たった一つのサイト候補、すなわちゴアレーベンだけを挙げていることで、サイト選定方法自体に汚点がついてしまっていることを批判する。サイトに対する最小限の必要条件、選択条件や比較条件等は、サイト候補ゴアレーベンで既に存在する地層に関する知識の先頭にすべて表現されており、ゴアレーベンは最終的なサイト選定が下されるまで、候補から外されることはないというわけだ。

この法律は「比較方法」とか複数で「サイト候補」を語るなどしてはいるが、最終的にはゴアレーベンですでに調査された塩岩ドームを除いて、ほかの異なる母岩のサイトを同レベルの規模で調査したことはなく、従って放射性廃棄物はやむなくデータベースの一番大きい場所、すなわちゴアレーベンにしか来ないことになっている、とEdlerは批判する。

それに「市民参加」というのが単に「伝達」という形でしか行われないのも批判される点である。インターネットなどの現代的なメディアの利用は、放射性廃棄物政策を民主的に決定していくという意味におけるプロセスでは、市民参加に取って代わるものにはなりえない。現代的な市民参加とは、産業的大プロジェクトに関して一度取り決められた決定事項をなるべく紛争をもたらすことなく実現するというのだけが目的ではなく、早い時期に市民参加を行ってそれが決定結果そのものに影響が与えられるようにすることが目的でなければならないはずだ。サイト選定法のコンセプトでは、その選定の方法を決定する当局が「市民参加」を組織しており、その当局だけがいわゆる市民の意見、公共の声を「考慮」しており、さらにその当局が自分の責任管轄となっている方法を評価する唯一の機関となろうとしているのだ。

このプロセスを進める間も開発状態にあるため、何度も調整が行われるという「学習する法律」であるという議論で、議会党派の代表者もも委員会の代表も誰もが対応し、将来修正を行っていくことを約束した。サイト選定法の改正法令においては、この法律が「学習する」プロセスであり、過ちを訂正する可能性が必要不可欠になるということが法律決定の理由として簡潔に書かれているに過ぎない。さらに、学習プロセスを可能にする効果的な要素は何もない、とEdlerは指摘する。それどころか、2016年6月23日付けの最終処分に関する組織構造の新法令は、2016年12月16日付の放射性廃棄物処分に関する新法令と共に、連邦環境省(BMUB)と連邦放射性廃棄物安全処分庁(BfE)、従って連邦政府にすべての決議権限を集中させている。事実上、法形式での計画決定においては、国がプロジェクト開発者であり監督官庁であり立法機関なのだ。最終処分に関する一般的な安全要求は、州の同意なしに、諮問機関に相談することなく、または話し合いを中心とした市民参加も一切なしに連邦環境省(BMUB)が法規命令を出して決定することができるようになるのである。これにより、ゴアレーベンを巡る過去の事例で見てきたように、執行機関は最終処分に関する基本的な安全要求条件を、政治的判断で選んだサイトの地域的実情に合わせて調整することができるようになってしまう。

連邦放射性廃棄物安全処分庁(BfE)はさらに、重要なプロセスのステップを決定するだけでなく、地域的会議や「地域の意見」というものを通じて市民参加を組織し、その上でその結果をどう考慮するかに関しても決定権があるという問題がある。いわゆる国内の諮問機関には地域的会議などと同じく、実は何の権利も与えられてはおらず、彼らの言う「学習型」プロセスでプロセスを決定運営していく官庁に対して過ちを効果的に修正したり、元の状態への復帰したりすることが許されてはいないのである。

推薦:長期の中間貯蔵

グリーンピースは2013年にすでに、放射性廃棄物に関する問題を新たに根本的にやり直すため、サイト選定法全体を撤回することを推薦したが、その当然の帰結が今も同じように求められている、とEdlerは語る。深地層埋設処分を決定する十分な根拠がないからである。ある官庁がBfEの権限をもって、すでに成立させてしまった硬直した法的効力のあるプロセス構造の中で、一度1つの方向に向かってしまえば、どうしてもその方向性に勢いがついて、議会によっても制御することが難しくなってしまうに違いない。このような間違った決定が過去にも、全く不適なアッセの塩岩ドームでの放射性廃棄物貯蔵や、ゴアレーベンの袋小路を生みだしてきたのである。こうした大きな過ち、しかも後になってから高い代償を払って修正しなければならなくなった決定は、考え方と政策方法そのものに過ちがあったことに起因しているのだ。ことに、取って代わるほかの方法がないか意識して探し、それを合理的に、民主的に明らかにしていくことを怠った、という点である。

このような過ちを繰り返す代わりに、新しく長期に中間貯蔵する方法を開発し、その設備を建設することが今一番求められるはずである。ことにそれは、最終処分場選定におけるこれまでの過ちを修正するための時間を稼ぐことにもなる、とEdlerは説く。連邦政府の計画によれば2031年までにサイト決定をし、最終処分場の運転を2050年には開始するとしているが、専門家のほとんどは今、どのような最終処分場を作ることになっても、そのサイトを探し、それが使用開始になるまで、それよりずっと長い時間が必要になるであろうと予測している。

ということは、長期の中間貯蔵が基本的に深層における最終処分に取って代わる方法になるのではないかという選択決定如何にかかわらず、中間貯蔵の期間は延長せざるを得なくなる。これまで計画され、認可を受けてきた40年間という中間貯蔵期間を超過することが、放射性廃棄物収納容器の安定性と完全性に関し、そしてその中に含まれている燃料棒やガラス固化体にどのような影響を及ぼしていくのか、今日誰もはっきりと言えないのだから、新しく中間貯蔵設備を作るならば、それに従ってメンテナンス、再収納ができる設備を最新の科学技術の水準に従って開発し、建設していくことが必要であろう。つまり、チェック、メンテナンス、修理ができるよう、容器を開封する可能性のある「ホットセル」を作ることである。新しい中間貯蔵設備は、最低100年間、収納容器の安全技術的状態が変化しないことが確保できるよう設計されなければいけない、とEdlerはさらに説く。続けて、機械的、温度的影響に対するマルチ・バリヤーシステムがなければならないし、容器が地震、洪水、火事、嵐、激しい雨など、考えられる限りの環境が及ぼす影響から効果的に守り、テロや戦争などの行為からも効果的な保護がもたらされるようになっていなければならない。それが実際、オランダのようにしっかり掩蔽された建物を地上に作ることになるのか、または地上に近い地下にそのような建物を作ることになるのかは、それぞれ地域の実情によって異なるはずで、それを研究対象として研究プロジェクトを即刻始めるべきだ、とEdlerは説く。運搬による危険を最小限にとどめるために、グリーンピースではこのような中間貯蔵施設を、今日すでに高レベル放射性廃棄物が貯蔵されているサイトに作るべきだと意見している。

そして、低中レベルの放射性廃棄物のいわゆる最終処分に関してもこれまで解決されてこなかったため、そしてほとんどすべての中間貯蔵サイトで問題が山積みとなっているため、これらの廃棄物も、高レベルの放射性廃棄物中間貯蔵の取り組みと一緒に考えるべきだと求めている。

2017年5月23日火曜日

DIE ZEIT 2017年5月11日付

「ガイガーカウンターと共に歩く」

ナヴィド・ケルマニ
Unterwegs mit dem Geigerzähler von Navid Kermani

本文はこちら:

ナヴィド・ケルマニはドイツでここ数年来注目され、評価が高い作家兼イスラム学者だ。イランからドイツに移住した両親のもとドイツで生まれ育ち、イランとイスラムの文化とドイツの文化を受けた彼は、2つの異なる文化を同じように代表し表現できるだけの素養、知識と文学性を備え、小説やエッセイには説得力があると、ここ数年高い人気である。ことに反イスラムのポピュリズムが勢力を強めている今のヨーロッパで、彼のようにドイツ・ヨーロッパ人であり、その西洋の知をしっかり身につけながら同時にイスラムの宗教・文化を語り、橋を架けることができる人物は重要なのだろう。2015年にはドイツ出版協会平和賞まで受賞している。前のドイツ大統領ガウクが去年後半にもう1期任期を務めるのを拒否して新しい候補を見つけなければならなくなった時、ケルマニを推薦する人の声も少なからずあったほど、彼は知識階級の中で信望を得ている。
そのケルマニがこのたびツァイト紙にチェルノブイリを訪ねた旅行記を書いた。ここにはノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチとの対話も出てくるし、日本でもフクシマ後チェルノブイリ後の研究発表が注目された、かつてベラルーシ政府から逮捕までされ今はウクライナのキエフに住んでいる医師で病理解剖学者のユーリ・バンダジェフスキーとのスカイプでの話も出てくる。あとは、彼がチェルノブイリを訪れ、そこでそこにまだ住み続ける人たちと話をしたり、ナチスに滅ぼされ、さらに放射能で汚された土地を巡りながら彼が感じ思ったことが書かれている。
私は彼の作品を1冊しか読んでいないし、ファンではない。しかし、発表するどの文章も大勢の読者に読まれることが明らかなこのような作家が、彼が自分で提案したのか、ツァイト紙からの依頼だったのかは不明だが、チェルノブイリに訪れてその報告を書いたこと、自分の専門分野以外の政治的社会的問題を取り上げて文学者らしい問いかけをしたことは、それなりの意味があると思う。
アレクシエーヴィッチが書いた「チェルノブイリの祈り」という素晴らしい本は実は「チェルノブイリ・未来の年代記」というタイトルだが、これについてアレクシエーヴィッチはあらゆるところで「私は未来のことを書き記している」と述べているのを思い出す。これはとても示唆に富んだ言葉である。そして、ケルマニがここで描写していることも、未来のフクシマであり、未来の世界の風景なのかと思うと、心がつぶされる思いである。いや、すでに現実となっている部分もたくさんある。そういえば、この前福島で森林の火事があった。人間はどうしてこんなに愚かで、残酷なのかと思わずにいられない。長い文章だが、ぜひ最後まで読んでほしい。(ゆう)


「ガイガーカウンターと共に歩く」
ナヴィド・ケルマニ

トラウマが積み重なる土地:根こそぎ動揺をを受けたベラルーシの社会。チェルノブイリ、グラグ、そしてドイツが犯した罪の足跡を追う。

立ち入り禁止区域を出たら衣服はそこで捨てなければならないというので、チェルノブイリの方向に向かうとき私たちは皆ぼろぼろの格好だった。ただ、私の靴だけは新しい。惜しげもなく捨てることができる靴もあるのだが、それは歩いている間に靴の底が取れてしまいそうなので、帰りついてから履いた方がいい、と思ったのだ。まずは高速道路を走り、それから田舎道を抜けていくと、見えるのは墓地ばかりだ。何も建っていない野原には四角にかたまっている林があり、それが必ずどれも同じ、よりによって空色のフェンスで囲まれている。白樺の木々の下に、墓石が兄弟のように所狭しと並んで立っており、プラスチックの花が冬でも色鮮やかに咲いている。これらはまったく普通の墓地で合同墓所などではないのに、白ロシアの墓所はどこも同じように彫像や記念碑のある戦没者慰霊碑でもあり、これまた同じくプラスチック製の花輪が添えられ、この近接の村の戦没者の名前が刻まれている。燃やされてしまったため村がなくなってしまい、親戚や近所の人を思い出す生存者もいなくて墓地もないところは、墓地なしで記念碑がぽつんと野原に立っているだけだ。第二次世界大戦では白ロシア人の四人に一人が命を落とした。さらに4分の1の住民がドイツ人により強制労働に連れていかれ、結局人口の半分は1944年には死んだか、または強制収容所に連れていかれた。戦後ソ連は10万人をポーランドに追放し、1万人をグラグに強制収容した。

他の国には、戦争の惨禍やホロコーストを追悼するための警告の碑というのがある。白ロシアを走るとしかし、ここでは国全体が警告の碑そのものだという印象を受ける。でもここでは無条件に被害者を一絡げにしてしまうことは許されない。1938年から1941年スターリンの大粛清による集団処刑の被害者があり、ポーランドの被害者、戦争捕虜やユダヤ人(ユダヤ人として殺害されたのである限り)、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが「恐ろしい戦争や革命があったにも関わらず二十世紀で最も重大な出来事」という事件の被害者、つまりチェルノブイリの被害者がいる。この原子炉は1986年4月26日に現在のウクライナの国土で爆発したが、放射性降下物の70%は白ロシアに降り注いだ。「白ロシア人は今や生きたブラックボックスとなってしまったのだ」と、ノーベル文学賞作家のアレクシエーヴィッチは原子炉事故について書き、90年代後半に有名になった本で書いた。「彼らが未来に対する情報を与えてくれている、私たち全員のだ」

ほとんど車の走っていない六車線の道路の脇にプレハブ住宅が立ち並ぶホイニキに入った。この村が立ち入り禁止地区は管理しているのだが、担当の役人がいるべき場所にいない。立ち入りを許可するその上役に当たる人もいないことが分かると、私は怒り心頭に発した。原子炉事故による影響や被害に対し誰も援助の手を差し伸べてくれない、と政府はいつも訴えているくせに、それを報道しようとわざわざこうしてウクライナではなく白ロシアに来て取材するため、外務省の正式の招待状まで携え、役人とアポイントまで取り付けて何時間もかけて車で訪れたというのに、手ぶらでまた帰らなければならないというのか?

もちろん、私はこうして怒りを露わにすることで、取材の報告がネガティブになったら、今後のキャリアに影響があるかもしれないと役所の上役たちが考えてくれるのではと密かに期待していたのだが、ある生物学者の人がそれじゃあ仕方ない、というように立ち入り禁止区域の端まで案内しましょう、と立ち上がったのはどうやら、同情心からだったようだ。迷彩色の服を着ているが、彼は実にのんびりした性格のようで、丸々としたお腹に口ひげを生やし、頭は半分禿げ上がっていて、こんな何もないところに何をしに来たのだ、と思っているらしいことがはっきり顔に書いてある。彼自身は、植物界における放射能の影響について研究しているという。住居を捨てるようにと住民が勧められただけの、いわゆる「立ち入りが許されている区域」を通っている間に彼が話してくれた。しかし、彼はなんの影響も突き止められないという。

「何の影響も突き止められないのですか?」
「私にはそれが確認できない、ということです。もちろん、値が高くなっていることは確認できます。でも、はっきり突然変異だということが分かるような例は、最初の数年にしかなかった。今では全く普通の自然が、そのまま放りっぱなしになっているだけですよ。野生の馬まで最近では見られます」
「人間への影響はどうなんです?」
「それは私の研究領域外のことなんでね。そこには人間はいませんしね」
「でも、あなた自身はどうですか? つまり、あなたやあなたの同僚の方たちは、おそらく毎日立ち入り禁止地域にいるわけでしょう、怖くありませんか?」
「いつでも私たちは測定器を携えています。それに、定期的に検査もうけています」
「それで、もし検査で結果がネガティブになったら、どうするんですか?」
「そしたら、私たちがなにか間違いを犯したことになります」
「間違い?」
「そう、どこかで不注意だったということです。あるいは隠れてベリーとかキノコを食べたとかね。たまにちょっと食べてみるくらいならいいが、あまりベリー類を食べ過ぎると、すぐに結果に出ますからね、そうすると値が上がるんです」
「それで、もし同僚の誰かに許容上限を上回る値が出てしまったら、どうなるんです?」
「そうしたらその人は免職されるか、解雇になりますね。これに関しては私たちは厳しいんです」
「許容値以上の放射能が測定されたからという理由で解雇されるんですか?」
「そうです、だってそれは間違いを犯したに違いないということなのでね」

私たちが走っているのは村ではない。木造の家がぽつんと1つずつあらゆる間隔で立っているだけで、柵越しに並んでいる家もたまにはあるが、ほとんどは30メートル、50メートル、あるいは100メートルも離れて立っている。ここはその昔は村だったのだ。でも人がいなくなった家々は取り壊され、床も何メートルも深く剥ぎ取られる。それに、ここに引っ越してくる人は誰もいませんからね、と話してくれるのは道路で話しかけてきた男の人だ。林務に携わっているという。ここは、人が引っ越していなくなるだけですからね、それで引っ越さない場合には、その人が死んだらすぐにその家が取り壊されることになっているんです、と。

「私たちが生きた足跡はみんな消えるんですよ」

500軒の家がかつてはここにぎっしり並んでいて、小さい町のようだったのだという。学校や店もあり、役場や集会所があった。村のコーラスさえあって、ここ一帯ではかなり有名だったのだそうだ。でも、今では残っているのは30人だけで、ほら、妻飾りの窓がきれいな家があそこにあるでしょう、あれが今度消えることになっています。数日前が葬式だったのでね。まだ電気は通ってますが、水道はもうありません、井戸から水をくむしかないんです。食品は週に二度販売車が回ってきますが、バスはもうここには停まりません、と彼が教えてくれる。

どうしてあなたはここに残ったんですか、と私は訊ねた。ホイニキで住宅を提供してくれたのだが、たった10キロ離れているだけでなんの違いがあるとも思えないし、大体、世界のどこにいても病気にはなりますからね、と林業の彼は語る。病気はあれから増えませんでしたか、と私が聞くと、自主的または自主的とはいえないが参加させられた数十万人のリクビダートルが1986年に火事を消し原子炉にコンクリートの覆いをかける仕事に従事したが、彼らのほとんどは確かに死亡した。でも彼らですら、いや、すべて通常の範囲内だ、それは毎年しっかり検査されているから、と彼は言う。値が時として高くなることもあれば、低いこともある、きっとそれは食べるものと関係しているのだろう、と。それで、子供たちはどうなんです? いや、子供たちの間では何も変わったことは見られません、私には2人しかいませんけどね。その子供たちを見て、人々は事故のことを知ったという。まず子供たちと妊婦が急いで避難させられたからだというのだ。それを彼は当時、トラクターの上から見て知り、なにか恐ろしいことがあったに違いないと思ったという。数日後になって初めてテレビで事故のことは報道された。5月1日のメイデーもいつもと同じようにパレードで祝ったのだそうだ、ただ子供たちと妊婦だけがそこにいなかったのだと。

そこに老女が寄ってきた。緑の頭巾を被り、金歯の見える彼女が、よそへ引っ越していった近所のほとんどの人は後悔している、町には、ことに歳をとってからはなじめないからね、と話してくれる。時々彼らはここに戻ってきて、自分たちの家が建っていた地面にキスするという。かなりの人が酒浸りになっていき、そっちの方が放射能より大問題だそうだ。そう、きのことベリー類は味は変わらないしジャガイモも昔と同じようにおいしい。何が起こると思ったのかねぇ。頭に角でも生えると思ったのかね? まあ、確かに異様に色のどす黒いベリーもたまにはあるけど、そういうのは私は食べないからね。

私たちがドイツ人だというので、彼女は戦争のことを話し出す。この戦争はもうずっと前に「その前」と「その後」という風に人生を二分してしまっていた。ある時、彼女のお母さんが地下の貯蔵室で若い兵士にばったり出くわしたという。この兵士はさめざめと泣いていた。ここで起きたことはきっと僕たちのところでも起きるにちがいない、とこの兵士は言ったそうだ。彼女が住んでいた村を焼き討ちにしろという命令が入った時、ドイツの兵士たちは皆で議論し合ったという。そんなことをしてももうなんにもならない、と何人かの兵士が言って結局、ドイツ人たちは村の家を焼き払わずに立ち去り、それでこの村はまだあるんだ、という。隣の村のあった場所では、記念碑がその村のことを思い出しているだけだ。

その記念碑を見ることができますか、と私が聞くと、生物学者は躊躇した。森を通り抜けないと行かれないかららしい。しかし林業の人が小道ならありますよ、と教えてくれた。「ファシズムの被害者を永遠に記憶する」と碑石に描かれていて、その下に名前が書いてある。花輪はきっとチェルノブイリ事故より前にその台座に置かれていたのだろう、プラスチックのリボンがもう擦り切れ、色も褪せている。ヒットラー・スターリンの独ソ不可侵条約により白ロシアでは1939年にもう戦争は始まっていたのだが、どの記念碑とも同じようにここでも「偉大なる祖国の戦争」は1941年から1945年まで続いたことになっている。

私たちは牧草地や畑の脇をさらに走り続けた。畑は見るところ、耕されたばかりのようだ。ここでも汚染した土は剥離してあります、と生物学者の男性が私たちを安心させようと話してくれる。それだけでなく、どの野菜も乳製品も、売りに出される前に必ずセシウムとストロンチウム、それにその他の核種が測定されているそうだ。次のゾーンでは何かを植えることも、狩りも木を切ることも禁じられているという。約50キロほどチェルノブイリから離れたところで、チェックポイントに到着した。ここから「放射能エコロジー保護区域」というのが始まる。迷彩色の制服を着た二人のガードマンが車の進入を監視しているが、このうちの1人は木でできた塔の上に乗って森で火事がないか見張っている。それ以外には、1日にせいぜい1台から3台くらいの車が通る時遮断機を持ち上げるしかすることはない。この1台から3台というのは、1台は生物学者、2台目は林業の男性、それからこの立ち入り禁止区域に住んでいる2人の人の車だ。

「ここにまだ2人も人が住んでいるんですか?」と私がびっくりして聞くと、「そうなんです」とガードマンの一人が答え、放射能はどこも均一に分布されているわけではない、と話してくれた。2人が住んでいる家では値が低くて、彼らがしつこく頼んだので役所もそれに根負けして住まわせてくれることになったという。「あそこで一体何をしているんだろうと私も不思議ですよ。あの人たちはあまり自分たちから話したがりませんからね」
「みんな、生き方はそれぞれ各自が自分で選ぶものだ」と生物学者が言う。「彼らはディスコがなくても平気だからね」と。

「2人は兄弟なんですか?」と私は質問したが、この孤独と静寂、そして危険の中で耐えていくには、なにか深い繋がりのようなものを想像しないわけにはいかなかったからだ。
「いや、単に男の人が2人ですよ」
「それで、2人は一緒に住んでいるんですか?」
「いやいや、別々の家にです」とガードマンが答える。
「この国民もそこまではまだ腐っていないからね」と生物学者がコメントをつけて笑った。

ホイニキに戻ってしまってから、まだ新しい靴を履いたままでいることに気が付いた。でもやはり捨ててしまった方がいいのだろうか? 生物学者の人が、立ち入り禁止区域でも何の心配もなく仕事をして、ベリーだって食べても大丈夫だといったではないか。村に住んでいる人たちだって、土を踏むごとに気にかけている様子は全くなかった。そして毎年、よそからたくさんの人がやってきて森でキノコ狩りをするのだと話してくれたではないか。

「どう思います?」と別れ際に生物学者に尋ねた。「この靴、このまま履いててもいいですかね? 正直言って、結構高かったんですよ」
「お捨てなさい」ほかのことはすべて通常の範囲内と言っていたくせに、彼はここではそう薦めた。

帰り道、ある記念碑へ続く標識のあるところで私たちは道を曲がった。オザリッチ収容所は1週間しか存在せず、ここには、有刺鉄線と監視塔、それから地雷で囲われた沼だらけの森のほかには何もなかった。小さな駐車場には開けっ放しの車が1台、ボリュームいっぱいにテクノ音楽を鳴り響かせていた。生物学者がディスコ、といったのはこういうものを指すのだったのかもしれない。車の横に立っていると、カップルが茂みの中から出てきて音楽を消し、照れたような顔つきで走り去っていった。色とりどりのプラスチックの花輪が立てかけてある記念碑の数メートル背後には、当時の柵がまだあるのが見える。そしてその柵の後ろに沼が広がっているが、ここでナチス軍は、撤退するときに労働できない人ばかりを7万人‐ ほとんどは老人、病人、子供たちだ - 小屋も衛生設備も何もないところ、飲料水は雪だけのところに食べ物も与えず、押し込めていった。赤軍がこの収容所を見つけた時には、囚人の半分以上は凍死か、餓死か、病死していた。1944年の3月12日から17日の間にこの柵の後ろ側でどういうことが起きたのか想像してみようとするが、私には沼以外に何も見えない。

高速道路沿いに墓地が立ち並び、同時に記憶がこのように厳しく統制化されている、次から次へとトラウマに襲われた白ロシアのような国にしかおそらく、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチのような作家は輩出できなかっただろう。彼女の作品は形式としても独特なものだが、それらは一人一人異なる、抑制されて語られることのなかったような、時にはあまり目立たない、多くはかなりショッキングな、そして互いが矛盾しあっているような思い出によって出来上がっている。夜、彼女のお気に入りだという、ミンスク中心街のプレハブ住宅の地階にあるイタリア風のカフェで落ち合うと、まず印象を尋ねられた。

「どの村にも、どの道にも、どの家族にも、これほど過去が現在にも生きているのだ、ということを目の当たりにするのは、信じられない思いでした。誰と話そうと、皆自分の歴史、話がある。そしてそれは同時にみんなに通じた歴史なんですね。国家がどのようなことを言おうと、これである種の集団の記憶というのができあがっているのではないですか?」

「いいえ」とアレクシエーヴィッチはきっぱり言った。「記憶が集団のものとなるためには、思い出を書いて残していくことが不可欠です」

事故から30年経ち、彼女の本ができてから20年経った今、チェルノブイリとの対処の仕方について、彼女はどう見ているのだろうか。

「対処なんてしていません」とアレクシエーヴィッチは答え、国が最初、ガイガーカウンターを配り、国のあらゆる場所に測定所を設置したことを話してくれた。この測定所で市民は食べ物を検査することができた。「そこでは誰も、測定器が点滅するのを自分の目で見ることができたんです。それで国は、どのような結論に達したでしょうか? 国はガイガーカウンターの製造を中止して測定所を閉鎖したのです」

「市民が自分のトラウマを語ることが許されない社会というのは、どうなるんでしょう?」

「病気になります」とアレクシエーヴィッチは言い、蔓延するアルコール依存症、高い自殺率、そしてなにより、誰もが見透かせる嘘で塗り固めた人生を皆が平気で受け入れているという事実や、誰も極めて政治的に消極的であることを見逃さないように諭してくれた。チェルノブイリのことを書いた彼女の本はソビエト連邦が解体して初めて出版することができたが、あれは古い秩序がまだ復活する前だったからだ。それに、あの頃はまだ放射能の影響が明らかだったので、国家もチェルノブイリを一般の意識から消すことはできなかった。あの頃は誰もが知り合いの中に誰かしら、病気になったり、自分の家に住むのを諦めさせられた人がいたものだ。でも、誰一人として30年も不安のまま生きることはできない、だから人々はチェルノブイリの影響を克服したと信じたかったわけだし、年ごとに新しい区域で農業を営む許可が下りても不思議に思わないで来たのだ。そして今、リトアニアとの国境近くにあるオストロヴェッツで新しい原発が建設されているのに、地元では大した反対運動もないという。そこはもうすでに汚染されている地域なのだ。

次の日、私たちはタティアナとその息子イゴールと共に、もう存在しない村へと向かった。タティアナは村民が文化センターに呼ばれ、そこでもう森に入ってはいけない、井戸の水は飲んではいけない、庭でできた野菜を食べてはいけない、子供たちを外で遊ばせてはいけないと言い渡された時、32歳だった。でも彼女の村は、チェルノブイリから北東に約300キロも離れたところにあったのだ。ただ風向きが災いした。今度は私は古い靴を履いてきた。なんて馬鹿なことをしているんだ、と自分で思いなおす。一日経っただけでもうパラノイアになってしまったか? ホイニキの生物学者の言ったことが正しいとすれば、新しい靴も当然捨ててしまわなければならないし、終いには裸足になってしまう。安心のため、今日はガイガーカウンターを持参した。

車で走る途中、タティアナが話してくれた。まず土が剥ぎ取られ、校舎の壁が塗り替えされ、村民が四六始終監視されただけだった。彼女たちの値はほとんど通常の範囲内だったが、ほかのお母さんたちの間には、もう子供たちを授乳してはいけないといわれた人もいた。その地区の担当長はでもいつも、心配は無用と言い続け、自分では間もなく白血病で死んでしまった。彼女の旦那さんは彼女と同じように学校の先生で、数学のほかに保身術を教えていたので、放射線のことを少し知っており、自分たちのためにヨウ素剤を調達した。農民たちは彼らほど不安がらずに、じきに子供たちをまた外に出すようになった。ある時、学校の校長をしていた彼女の義理の父親がやってきて、チェコスロヴァキアの新聞を持ってきた。その新聞を翻訳して、彼らは情報を得ようとしたのだ。またある時は、まだ2歳にもならなかったイゴールに高い放射線値が測定され、すぐに病院に入れなければならないことになったが、それが一番つらい時だった。幸運にもイゴールは、その用紙に書かれてあった検査日に検査などされていなかったことがすぐ分かった。偶然にも同じ苗字と名前を持った別の子供が高度被ばくしていたのだ。

「目に見えないもの対処するというのは、難しいものです」

新生児における奇形などについては彼女は何も耳にしなかったが、昔よりずっとたくさんの人がガンで死ぬようになったことには気が付いたという。それが果たしてチェルノブイリのせいなのかどうかは彼女には判断できない。そのほかに目に付くのは、信じられないほど自殺する人がたくさん増えたことだという。彼女は最初は体がだるくて仕方がなかったが、次第に慣れてきた。小児科の医者は、できるだけ早く引っ越すように、できるなら避難命令が出される前にした方がいい、と彼女に言ったそうだ。避難命令が出たのは原子炉事故のなんと6年後だったのだが、住居が割り当てられるまで待つのはやめようと彼女は決心した。その代わりに彼らは自分たちでガイガーカウンターを持ちながら、自分たちの新しい故郷となるところを探したという。もとの村から約130キロ離れたところにあるマヒリョウで彼らはやっと、ガイガーカウンターの針が揺れないところを見つけた。
この地区の首都クラスノポリエで私たちは休憩を取り、タティアナのかつての同僚で今は自治体議会の議長をしている女性と話した。村で受けるのと同じように彼女は心温かく私たちを歓迎してくれ、彼女のふるさと自慢は痛々しいほどだった。かつては2万6千人の人がクラスノポリエに住んでいたが、今では1万人にも満たないこと、学校の給食は無料だしついこの間までは給料に特別手当が付けられていたのだが、それでも人口は増えなかったという。

「私たちは忘れられたとは思っていません」と議長は強調し、どの公共の建物でも線量が定期的に測定され、子供たちはサナトリウムかまたは外国で夏休みを過ごして回復しています、と語った。子供たちが健康なのに、なにから回復する必要があるのかについてはよくわからないという。私たちにどうしても新しくできたスポーツセンターを見せたい、と彼女は言い張った。こういうものはどこにでもあるものではないから、というので私たちが目にしたのは、ジェットバスと子供用プール、それから本格的な25メートルプールだった。

「どうです、素晴らしいでしょう。このほかにまだサウナもあるんですよ」

つい最近耕された畑やまだ若い松林をの脇を通り抜けていく。放射能のシンボルのついた立ち入り禁止の標識を過ぎて初めて、自然はそのままの姿で放っておかれている。(道路を固める)コールタールの痕跡は一切残っていない。道の端に、誰かがどかした丸太が横たわっている。ある十字路にかなり風化した石碑が立っているが、そこに刻まれた名前はもうわずかしか読み取ることができない。イヴァン・サイテフ、ユリ・ヤキモヴィッチなどが「ドイツのファシストとの戦いで命を落とした」。この石碑が属していた村はとっくにナチス軍に焼き払われてしまってない。

タティアナの村ももうこうした戦争記念碑しかないようだ。しかし、彼女の息子が森の中で教えてくれた。樹齢おそらく20年か30年ほどの松の林の真ん中に、ある二階建ての建物の構造壁が見えた。この建物はかつて教員の職員寮で、そこに彼らは住んでいたというのだ。イゴールが思い出せる最後の記憶は、彼の父親が電線を切断したことだそうだ。イゴールがどうしてそんなことするの、と聞くと父親は、短絡しないようにだ、と答えた。ブルドーザーは大抵夜中に襲ってくる。住民たちがドア、窓、床などを外しておく時間がないようにだ。しかしどこからか皆、どの家が次に取り壊されるか事前に情報を持ってきた。それで自分たちの家の最後の木材まで残らずバンに積んでモスクワでペンションとして売って金儲けをした人もいた。イゴールは、どうして土が出てくるまで職員寮は掘り起こされなかったのか、理由はわからない、といった。その他の住宅は皆木造だったので、もしかしたらコンクリートには、木より放射能があまり堆積していなかったからか、もしかしたら取り壊すのがもっと手間がかかったからだけかもしれない。

さらに森を進み、かつて食料品を売っていた店に出た。この店もコンクリートでできていた。屋根は落ち込み、桟がバラバラに落ちていたが、壁にはまだかつてチーズや肉売り場だった場所にタイルがあるのが見えた。

「昔はお店の前に駐車場があったんだ」とイゴールが教えてくれる。「車がたくさんあって、こんなに森閑としたとこじゃなかったんだよ」

それから私たちはコンクリートでできた3つ目の建物に到着したが、ここはかつてタティアナが毎朝、学校に着くと頭の禿げた義理の父親と顔を合わせた校長室の入り口のすぐ横にあった。壁には次の同窓会の日にちが貼ってある。89年度の卒業生は毎年8月最初の土曜日に集まることになっている。ウラジミール、もしこれを読んだなら、電話してくれ、と書いてある。木の床は抜けているが、催し会場でもあった体育館は壁にまだバスケットボールのバスケットゴールがついたままだ。不思議なことに、ガイガーカウンターを床においても点滅しない、建物の中でも以前校庭だった森の中でも、だ。私の靴底すら汚染されていない様子である。

帰り道、高速道路に絶滅収容所があったことを示す標識があった。トルステネツでは最低6万人の人間が殺されたが、そのほとんどはユダヤ人だった。この収容所を生き延びたごくわずかなユダヤ人はまた、解放後「スパイ」としてグラグで消息を絶っている。NKWD(内部人民委員部、ソ連スターリン政権下で刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた国家機関)は、彼らがドイツ人に殺されなかった理由はそれ以外にないと考えたのだ。いわゆる「放射能エコロジー・ゾーン」では、被ばくさせられた者は自ら「怪しい者」になっていく。

ミンスクにある私のホテルの部屋から、原子炉から140キロ離れたゴメリで医科大学長を務めていたユーリ・バンダジェフスキーとスカイプ電話をした。彼はがん発生率が急激に増加することを公に発表したあと1999年に逮捕され、6年後には亡命を余儀なくされた。今日では彼はキエフで研究を続けている。まず私は彼に、ベラルーシの役所では何のデータも収集していないのか、それとも収集してもそれを単に公表しないだけなのか、聞いてみた。

「それはわかりません。10年、12年来、ベラルーシからは核医学に関する論文で信頼のおける資料は何も出てきていません。でも、私たちが持っているデータをベラルーシに当てはめれば、あそこは放射線の影響がずっと強かったので、問題は小さくなるどころか、増加しているに違いないと思います」

「というとどの程度?」

「今いるのはチェルノブイリ事故から2代目の世代です、つまり事故後に生まれた人たちですね。その両親たちが遺伝子に損傷を受けたせいで、彼らはずっと数が少なくなっています。もうすでに死んでしまった人も多い。あるいは、子供を残すことができない人も多い。あるいは、子供を作ってもその子供たちが損傷を持った遺伝子を受け継ぐのです」

私は、立ち入り禁止区域にいたのにガイガーカウンターがならなかったことを報告した。ということはもう大丈夫なのではないですか? するとバンダジェフスキーは私を諭した。放射能はもう表面からは消えているので、その土地に立つことは問題ないが、その土地に生えるものを決して食べてはいけない、根を通じて放射能は植物に入り込むのだ、と。森林の火事もとても危険です、と彼は言う。ああ、それで立ち入り禁止杭域に入るチェックポイントのところに監視塔があったのか。

「私たちを案内してくれた生物学者の人は、売りに出される前に食品はすべてチェックされるから大丈夫と言っていましたが」
「ええ、検査することはしますが、値が高いと、汚染されていない食品と混ぜて、大体標準値になるようにするんです。そしてこういう食品が全国にばらまかれて売られているんです」
「でも標準値自体は安心できるものなんでしょう?」
「いや、もちろんそうではない、そのことを私はずっと言ってきたんです。遺伝子がすでに損傷を受けてしまっている世代にとっては、わずかな放射能の量でももう危険になるんです。それにですね、食べ物というのはレントゲン撮影とはまったく別物です。食べ物に放射能など、少しも入っていてはいけない」
「それじゃあこれは……殺人とは言いませんが、過失致死、集団過失致死じゃないですか」
「過失ではない、科学的に行われているんです、これは集団殺人です」

それで靴をどうしたものだろうか? 両方とも捨てるべきだろうか、新しいのももちろん?

ユーリ・バンダジェフスキーはモニターの中でおおらかに笑って「靴なんて、問題ありませんよ」と安心させてくれた。「どちらか1足をよく洗って、チェルノブイリの思い出に取っておけばいい」。

2016年2月16日火曜日

フクシマ訪問記

2015年11月に白河のアウシュヴィッツ平和博物館と同じ場所にある原発災害情報センターでのお話会に招いていただき、フクシマ事故後初めて東北を訪れた。そしてその翌日は、原発事故で線量が高くなって住めなくなり、白河に避難して新しい生活を始めていらっしゃるお二人の男性に、被災地を見せてもらう機会に恵まれた。私にとっては、それまで頭で理解していたはずのことが、実際に自分の目で見て衝撃を受けることばかりで衝撃的だった。その話をベルリンに帰ってから友人に話すと、放射線テレックス(Strahlentelex)にぜひ書いてみないかと薦められ、自信はなかったが自分の印象と気持ちを素直に書いてみることにした。それが2016年2月号の放射線テレックスに掲載されたわけだが、お世話になった白河のアウシュヴィッツ平和博物館の小渕さん、私たちに付き合って自分の故郷を見せてくださった横山さん、菅野さんにもう一度感謝の気持ちを伝えるためにも、ここに日本語に訳すことにした。思いがけないすばらしいおもてなしをしていただいただけなく、私たちのために時間をかけて故郷を一緒に回っていただいたことには、言葉では言い表せないほどの贈り物だった。また、今回私はつくづく自分がジャーナリストには向いていないと自覚した。ちゃんとした記録も残さず、メモも走り書きばかりでゆうきさんと雅子さんにあとからいろいろ私の記憶の穴ぼこを埋めてもらった。皆さん、本当にありがとうございました。
(ゆう)

Strahlentelex2016年2月号
本文はこちら:http://www.strahlentelex.de/aktuell.htm#aktuell


フクシマ訪問記
前の晩、雪がしんしんと降り始めた。初雪だそうだ。2015年11月25日。パリに長く住んでいる、バイタリティあるゆうきさんに同伴する形で、私は事故後初めて東北に足を踏み入れた。あの三重の災害があってもうすぐ五年だ。ゆうきさんは寒がりで、あちこちに使い捨てカイロを貼り付けている。白河にある原発災害情報センターの集いの部屋に、お話会の後交流会が行なわれるということで場所を移したが、石油ストーブが燃えている。子供時代を髣髴とさせる石油ストーブの独特の暖かさだ。とりあえず私は、ストーブに張り付いているしかなかった。部屋の中央に置かれた長い机には、次から次へと皿や鉢に盛られたご馳走が並べられていく。参加者がそれぞれこの集まりのために自宅で作り、持ち寄ってくれたものだ。お酒や飲み物、お茶が加わり、予想していなかったご馳走つきの「交流会」が始まった。およそ20人くらいだろうか、白河近郊からこの原発災害情報センターに集まってきたこの人たちが、ことにこの5年来、どのような生活を送り、なにを経験してこられたのだろうか、私には詳しく知る術もない。この情報センターはアウシュヴィッツ平和博物館と同じ土地に建っている。博物館の館長を務める小渕さんは、以前は町から町へと移動してナチの犯罪を伝える展示会を催していたということで、それから展示会を催していた場所が閉鎖になったところ、白河で土地を無償で提供してくれる人が現われ、それでここで博物館を開くことになったという。小渕さんがそこに江戸時代中期の古民家を移築させてさらに建て増したのが、アウシュヴィッツ平和博物館のかわいい建物だ。中に入れば、ドイツの収容所跡や博物館などで見てよく知っているナチスのおぞましい過去の事実を証言する写真や資料、遺品などが展示されている。奥には特別企画の展示室があって、これまでにパレスチナの写真展や世界ヒバクシャ展、チェルノブイリ写真展などが催されてきた。さらに建物の隅にある図書室で、私は生まれて初めて本物のドイツ語の『我が闘争』を手にした(ドイツでは禁止されていたからだが、著作権が切れて、このたび歴史家コメント入りの本が発売されたばかりだ)。どうやら結婚のお祝いに花嫁花婿に町の市長から贈られた本らしい。恥ずかしいことに、私はここに招かれるまで、アウシュヴィッツ平和博物館が日本にあることすら、知らなかった。

招待はゆうきさんを通じて回ってきた。彼女は以前から小渕さんと知り合いで、本当は彼女一人が情報センターで話をするように招かれていたのだ。でも、原発大国であるフランスのあまり幸先のよくない反原発運動の話をしても気が重くなるだけだからと、ちょうどベルリンから東京に来ている私を一緒に招いてはどうか、と推薦してくれたのだった。ドイツの脱原発に至った状況や、エネルギーシフトについて話してほしいということだった。小渕さんはさらに、1泊してくれれば次の日に被災地を見せる、とまで言ってくださった。私はでも、なかなか決心がつかなかった。大体、私などそんなところに行って皆さんの期待に応えられるような話ができるだろうか? ドイツに関するエキスパートであるようなフリはしたくなかったし、そもそもいわゆるダークツーリズムをしたくなかった。被災地をちょっと訪れただけで「私は被災地を見て、被災者たちに会ってきた」というのはいやだったのだ。でも、最終的に行くのを決めたのは、これまでメールや電話でしか話したことのなかった飛幡祐規(たかはたゆうき)さんに実際に会って話がしたかったことと、ドキュメンタリー映画監督の坂田雅子さんが同行するといってくれたこと、そして、いったいどんな人が白河でアウシュヴィッツ平和博物館を営んでいるのか知りたかったからである。

菅野さんはユーモアのある気さくな男性で、年金生活者とは思えぬ若さだ。彼が今回、自分の車で突然失われてしまった故郷を見せてくれるという。もう一人の物静かな同伴者は横山さんといい、高校で日本史の先生をしていたそうだ。実直でとてもまじめそうな男性で、彼は私たちのためにすでに巡回ルートを考えて準備してくれており、その周辺の地図までコピーしてくれていた。私たちが宿泊していた旅館に翌朝迎えに来てくれると約束していたが、ぴったり9時半に部屋の電話が鳴った。受話器をとると、旅館の女性があまりにシュールなことを言ったので、私はあまりに驚いてその言葉を一人胸のうちにしまった。彼女はこういったのである。「アウシュヴィッツからお迎えが来ました」

白河はいわゆる「中通り」にある。奥羽山脈と阿武隈高地に挟まれ、宇都宮の北、郡山の南に位置し、東北新幹線を使えば東京から新白河まであっという間だ。迎えに来ていただいた旅館からまず二本松まで北上し、それから菅野さんの故郷である川俣を通って東へ進み、飯舘を通って南相馬まで行き、そこから太平洋沿岸を東に浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉を走る。福島第一原発の事故さえなければ、私はこれらの小さな町の名前を知ることはおそらくなかっただろうが、今ではこの名前はどれも、毎日のように日本から入るニュースで馴染み深くなっている。

菅野さんは農家の出身で、通学に毎日長くかかった、と控えめに語ってくれた。小さいときはバスで、少し大きくなってからは自転車で通ったそうだ。すると行きはよいよいで帰りは大変だったに違いない。彼の家は川俣でも山木屋地区にあり、ここは汚染がことに激しかった地域だ。山木屋は海抜約500メートルほどの山の奥にある。ここでは線量があまり高かったため、町全体が避難する権利を得られるよう町長が奮闘したという。菅野さんの土地からは谷の向こう側に別の部落が見えるが、ここは二本松に属していて、線量は同じくらい高いにもかかわらず、二本松の住民たちは避難の対象とならなかったため、子供を含む住民がすべてここに残った。

菅野さんの家は典型的な日本家屋の黒い屋根瓦を持つ立派な家で、玄関の前に立つ大きな柿の木には、大きな柿がオレンジ色に生っている。まるで絵本のようだ。車寄せ付近に二十個近いブルーの「フレコンバッグ」が並んでいる。おぞましい「フレキシブルコンテナーバッグ」の略だが、これはこの地域の平らな場所にはいたるところに今やあふれかえっている。ほとんどは黒い色で、この袋にはいわゆる「除染作業」で削り取った土が入っている。菅野さんに、ここも除染したのかと聞くと、想像もしていなかった答えが返ってきた。「いや、ここにはうちの家財道具が入っています」町長が住民と一緒になって運動したため、国はここを田んぼも含め除染することを決定した。2013年の8月には、避難指示解除準備区域に指定されたので、家にあるものすべてをフレコンバッグに入れて家の前に出し、収集できるようにしておくようにとのお達しがあったのだが、何カ月経った今もこのままだ、と菅野さんは語る。この目の前に置かれた十数個の水色のフレコンバッグを見て、今菅野さんが話した言葉の意味を理解したとたん、涙が思わずこみ上げてきた。彼の家は大きな地震にも持ち堪え、津波にも襲われなかったのに、目に見えない放射線が、彼の住居を、愛着のあったもの、彼の人生に何らかの意味を持っていたもの、彼と生活をともにしてきたものと一緒にあっという間に汚染し、住めなくしてしまったのだ。彼はあたふたとすべて持っているものをそのままに去らなければならなかったのだ。私は息が詰まる思いがした。原発の最悪事故というのは、そういうことだったのだ。菅野さんは、自分が建てた家、何年も住み、本職の傍ら農業も営んでいた土地が荒れ果て、自分の人生を具象化したすべてがこうして放射性廃棄物と宣言されてプラスチックの袋の中で荒れ朽ちていくのを、傍観していなければならないのだ。私は唖然として言葉も出ないのと同時に怒りがこみ上げてきてたまらなかった。フクシマからの話をたくさん聞いてきたはずなのに、自分には十分想像力がなかったということか。

菅野さんの家に行くには、車道から脇に入った急な坂を昇らなければならないが、その道には格子のついた金属の蓋が乗った下水路と思われる溝が横に走っている。ここに入ったとき、菅野さんがわざわざ車を降りて、コンクリートで舗装された道の上に外して寝かせてあったそのがっしりした格子を溝に戻すのを私たちは見ていた。また車に乗って出発するときに、菅野さんはこれと反対の動作をした。黙ってその様子を見守る私たちに、理由を説明してくれた。「空き巣狙い対策です」

私たちはさらに東に向かう。菅野さんは口数は少ないが時折車窓から「あそこが私の母校の中学です」とか「これが私の通学路でした」と語ってくれる。川俣から飯舘に入ったところにあるモニタリングポストは毎時0.6マイクロシーベルトを示していたが、予想通り私たちが借りて持っていたガイガーカウンターが示すのはそれより高い値だった。浪江の立ち入り禁止の警戒区域に入るところでは毎時0.8マイクロシーベルト。どこをみてもパワーショベルと除染作業員ばかりだ。道路沿いに「除染作業中」と書いた旗がはためいていて、あたり一面、黒いフレコンバッグがぎっしり並んでいる。夏の終わりにはこうして削り取った汚染土を入れた袋が嵐で阿武隈川に流されてしまいスキャンダルとなったので、それ以来通し番号を通すことになったそうで、黒い袋に番号が書いてあるのだが、これだけ信じられない量の数字で果たして意味があるのか、私にはわからない。信じられないほど広範囲の土地、おそらく田んぼだったに違いない平らな土地の表面が削り取られ、フレコンバッグに詰め込まれて何重にも重なって並べられている。このプラスチック容器はもちろん放射能に汚染された土を入れるために作られているわけでも、長期間野外で保管するようにできているわけでもない。フクシマ事故があってから比較的すぐ詰められた袋はすでに風雨にさらされて破け、壊れ始めている。菅野さんは言う。「除染できているのは大体10%くらいです。山はほら、除染しようがないでしょう」

常磐自動車道を通って浪江に向かう。車中で毎時0.5マイクロシーベルトを測定した。それから私たちはつい最近開通された沿岸沿いの国道六号線を走る。国道六号線は事故以来ずっと閉鎖されたままになっていて、津波で残された自動車を運び去ることもできないまま放置されてきた。ちょうど数日前に私は東京で、この地方に住むとても気持ちのよい話し方をする、私たちのお話会にも出席してくれた武藤類子さんの講演に出かけたのだが、その時武藤さんがちょうど、政府寄りの団体が推進して実現した国道六号線の清掃ボランティア活動「みんなでやっぺ! きれいな6国」について話してくれたばかりだった。スキャンダルは、この清掃活動の実行委員会が若者たちをボランティアとして参加させたことだった。約200人ほどの地元の中高生たちが10月10日に、まだ場所によって高線量のこの国道で「ボランティア」としてゴミを拾い、清掃活動に携わった。当然だがたくさんの団体や市民たちがこの「郷土の復興」という名においてなされる無責任な計画ややり方に反対し、抗議した。武藤さんは講演参加者に新聞「福島民友」に掲載された、開沼博(かいぬまひろし)なるいわき市出身の人物が書いた記事をコピーして配ってくれたが、これは、罪なき市民を攻撃し、根拠ない偏見を助長し、殺人者扱いするヘイトスピーチを行なっている、という、この市民団体等の抗議を非難する文章だった。

この国道六号線を南に下り、事故のあった原発に近づく双葉と大熊の間の約14キロほどを進んでいくと、線量計は最高毎時4.8マイクロシーベルトまで上がった。ゆうきさんは約10分ほどはコンスタントに2マイクロシーベルト以上で下がらなかった、と記録している。私はその場で自分の目で見ることと、同時にたとえば若者による清掃活動がここで行なわれたという話を飲み込むことができない。どうして中高生がここでわざわざ道路に立って落ちているゴミを拾わなければならなかったのだ? このプロジェクトはもともと、原発事故が行なわれる前に計画されていたそうで、「ハッピーロード構想」といって桜の木を植える予定だったらしいが、3.11があって延期になったそうだ。このアイディアはだから延期はされたものの中止にはならなかったのだ。誰のためのハッピーロードだろう?

車でさらに進んでいくが、約5年前に津波に呑みこまれたとは信じられないほどの活気だ。ここにはまた元のように生活し、仕事をする人がいて、遊ぶ子供もいるのが、制服を着た中高生や子供の姿で分かる。南相馬では列になって並んで建っている、なんとも殺風景で哀しい仮設のプレハブ住宅を見た。これはもともとは一時的な応急住宅として建てられたはずだが、ここにまだいる人たちにとっては、それが長期の住まいになってしまったわけだ。警戒地区の入口ではユニフォームを着た男の人たちが立って見張っているが、彼らは簡単なガーゼのマスクをつけているだけだ。菅野さんも横山さんも通行許可書を持っていなかったが、横山さんが車を降りて交渉すると、通ってもいいという合図が出て、私たちはゴーストタウンにゆっくり入っていった。浪江だ。地震でつぶれた家屋がまだそのままの形で残っている。歪み、潰れ、傾いたまま、生気なく取り残されている。それでも、あの強い地震に持ち堪えた家屋もかなり多くあったことに驚く。それなら、もちろんここでもう一度復興することはできたはずだ、放射性物質という目に見えない毒がこの土地を半永久的に汚染しないでいたならば。

私たちに同伴してくれた菅野さんと横山さんは、確かに恵まれている方なのかもしれない。お二人ももちろん故郷を、家財道具を一切失ったわけだが、彼らには年金も入り貯金もあり、あの哀れな仮設住宅に留まることなく新生活を白河で始めることができた。きっとそれよりもっとひどい悲劇が、不幸が、絶望的で未来の見えない状況があるに違いない。でも、それでもみんなに共通することが一つある。それは、彼らが皆人生の真っ只中で引き裂かれた、ということだ。それも単に大地震や津波によってではなく、目に見えない、おぞましく気味の悪い毒によって。しかもその毒は一度だけ拡散したのではなくて、今も続いて水に、空気に、食物に、土に流れ込み、家族、友人関係、社会に大きな溝を掘り、傷を深くしているのだ。そういう意味で原発事故というのは戦争と同じだ、これは無作為に与えられる暴力だからである。そしてその暴力に人間は長い時間にわたって絡めとられ、それを耐えることを余儀なくされる。核の脅威といえば普通は核戦争を指すが、核戦争と原発事故はどこが違うのだろう? 私にはその違いが分からない。

横山さんは双葉の出身で、車窓から指してこう言った。「あそこに海が見えます。前はここからは海は見えなかったんですが、津波でみんな倒されてしまったので、今はここから海が見えるんです」確かに遥か向こうに太平洋が光って見える。双葉を通る道路から、横山さんが指で国道の反対側を指した。「あそこに私の自宅があります」私が、家の様子を見に、定期的にお戻りになるんですか、と聞くと、彼は口数少なく語る。「いえ、もう長いこと帰ってないです」以前は何度か戻って最低限のことを済ませていたが、今ではもう長い間帰っていないという。哀しいとか、つらいとかいう形容詞を使わずに、ただ淡々と行動や状況を説明するに留まる彼の口調に、私はでも底なしの哀しさを感じてしまう。もう生きている間にここに戻れることはないと思っています、と横山さんは語った。

いわゆるファミリーレストランで遅い昼食を摂ったが、思いがけず満員だった。ここで私たちは軽食を食べながら横山さんと菅野さんにいろいろ質問した。たとえば原発災害情報センターがどのように設立され組織されているのか、なにをしているのか、などだ。私たちがお話会をしたホールも、それからお食事会となった集いの場所も、両方とも古民家様式と校倉(あぜくら)造で、寄付された木や梁、屋根で有志によって手作りで建てられたものだそうだ。この近辺に住む、自分の居場所ではなかなか自由に発言することのできない人たちがここに集まり、交流する場所、不安、悩み、問題を語りあい、体験や意見を交換する場所となっているのだ。ここで人々は情報を集め、勉強し、話し合い、議論し、どういう問題があるか、なにができるか考えあったり、時にはお酒とおいしいご馳走を持ち合って、生の喜びをわかちあう場所なのである。

高速を通ってとうとう出発点である新幹線の新白河駅まで送っていただいた。丸一日私たちのために割いて案内してくださったお二人を昼食に招くことも許されなかった私たちは、せめてガソリン代だけでも、と言ったが、二人とも頑なに受け取ってくれなかった。「遠くからわざわざ来ていただいたお客様からそんなものはお受取りできません」それではせめて災害情報センターへ寄付としてお受け取りください、と何度も言って、頼むように封筒を受け取ってもらった。

もうすぐあの三重の災害から5年が経つ。恐ろしいニュースはあの時、何段階にも分けて私のもとに届いた。最初は地震、それから津波、そして福島第一原発の爆発だった。津波と爆発後画像で見た、あれほどショッキングな図はこれからはもうあまり出てこないかもしれない。しかし脅威で不安を与えるニュースはこれからも続いていくだろう。傷の深い、不吉な余波は静かにやってきて長く留まり、どんどんひどくなっていく。その間に、それらを近くで見ない人たちはフクシマを日々忘れ去っていくのだ。私がこの短い滞在の間に見たもの、聞いたことは長く余韻となって残った。今でも、菅野さんの家の前の木になっている見事なオレンジ色に熟れた柿が目に見える。そして、その横で菅野さんの人生を形作っていたものが放射性廃棄物となって水色のプラスチックの袋に入れられ、置きっ放しにされていたのを、私は忘れることができない。これらの静かな悲劇を理解するよう努力し、このようなことが二度とあってはならないと思いを噛み締めるのが、私たちのような「外部者」の役目ではないだろうか。この短い滞在で信じられないほどたくさんのことを授かった私は、ここに来ることができたことを本当にありがたく思う。そして今一度思いを新たにしたのは、本当に百聞は一見にしかず、ということであった。

2015年11月3日火曜日

なにごともなかったように

COP21国連気候変動会議が11月30日から12月11日までパリで開かれる。原子力大国であるそのフランスでやっと「エネルギー移行法」が成立したようだが、いったいどの程度まで「本気」なのだろうか。原子力エネルギーを悪とするドイツの風潮と違い、フランスの原子力神話も原子力ロビーの力も相変わらず強いからだ。ツァイト紙にちょうどそれに関する記事が載ったので、訳した。(ゆう)


2015年10月29日付け ツァイト紙 
なにごともなかったように
Als wäre nichts geschehen
DIE ZEIT Nr. 44 vom 29. 10. 2015

フランスでもやっとエネルギー移行法ができた。原子力からの移行を約束する法律だが、電気会社も市民も、それを本気にはしていないようだ。

Georg Blume報告

一見した限りでは、あたかもフランスもやったか、という感じを与える。国連気候変動会議を開催する国として、フランスが原子力大国から一挙に風力発電や太陽光発電の国に生まれ変わりでもするように。国民議会が夏に長年の約束だったエネルギー移行法を成立させたときのことである。「我々は皆、地球に対し責任がある。だから我々は世界に対し例を示す必要がある」とフランスの大統領フランソワ・オランドは言った。

11月にパリで、新しい気候変動枠組条約を話し合うために集まるその世界はしかし、オランドのビジョンを目の当たりにすることはないだろう。フランスのエネルギーシフトは、その最初の段階で留まってしまっているからだ。新しい太陽発電設備や風力発電設備を建てる代わりに、フランスはまた原発を建設しようとしている。昔のように勇ましく独力でローヌ川やロワール川沿いに建てるわけではなく、中国の財力を使って、イギリスに建てようとしているとは言っても、である。

フランスのエネルギー政策に関する2015年の大きな出来事は、この新しいエネルギー移行法の成立ではない。フランスの電気会社EDFが中国のパートナーと最近交わした契約である。EDFは発電量から言えば、今でも世界最大の電気会社だ。EDFの社長ジャン=ベルナール・レヴィはロンドンでこのたび、中国の建設会社2社と原発建設契約に署名した。これは、イギリスの西南部に2基の原子炉を建設する融資契約だ。

こうして、中国の取引相手の尽きることのない資金を頼りに、財政的に行き詰っていたEDFはフランスの新エネルギー移行法がもたらす束縛から同社の原子力ビジネスのコンセプトを救済したい考えだ。レヴィのメッセージはこうである。「恐竜はまだ生きているぞ!」

フランスの現在エネルギー政策にまつわる戦いは、ドイツではちょっと想像しがたい。先週レヴィと環境大臣セゴレーヌ・ロワイヤルは公開文書ですら攻撃しあっていた。レヴィが大臣に、フランスのフラマンヴィルにあるプロトタイプの原子炉の建設期間延長を申し入れたところ、ロワイヤル環境大臣は、その代わりにドイツとの国境沿いフェッセンハイムにあるEDF最古の原発を廃炉にするよう求めたのである。しかしレヴィは、フラマンヴィルの新原子炉が稼動してからしかフェッセンハイムの原子炉を廃炉にはしたくない。オランドはしかし、2017年までの彼の大統領任期中にフェッセンハイムを廃炉にすることを選挙の公約にしてしまっている。この争いがどう落ち着くかは、まだ誰にもわからない。

EDFは命令を与えられてそれを実行する家来ではない。ドイツではフクシマ事故とメルケル首相が原発の運命を決定した。それ以来E.onやRWEなどのドイツ電気供給会社の上にはなんの星も輝いていない。フランスはしかし、EDFの意向でフクシマ事故後原子力エンジニアを派遣した。あたかもフクシマ最悪事故が日本人の無知によってのみ起こされたかのように演出したのだ。チェルノブイリ事故のあとも同じだった。ソ連の原子炉事故後も、フランス人は自国の放射線量が上がったことを認めようとはしなかった。EDFはチェルノブイリ後もフクシマ後も、なにごともなかったかのように平然とそれまでどおりを続けていくことができたのだ。

EDFは730億ユーロの売上金と15万5千人の従業員を誇るフランスの例外企業だ。1946年に創業以来企業としての誇りは高く、労働組合も強い。70年代から80年代にかけてEDFは約60基もの原発をフランス国内に建設した。競合会社など事実上誰もいなかった。
これらの原子炉のうち58基が現在でも稼動している。旧式原子炉の現代化や放射能廃棄物の処分など、結果として生ずる費用は実際には組み込まれて計算されていないので、フランスの1キロワットごとの電気料金はヨーロッパで一番安い。今でも原発電気会社EDFはフランス国内で一番好かれている企業である。2000年以降ヨーロッパで新しく作られたエネルギー関係の法律ができて初めて、EDFはその独占企業の地位を返上しなければならず、新しい私経済的構造を押し付けられ、株式市場に上場したが、その核心では何も変わっていないのが実情だ。現在でもEDFの株の80%以上を国が所有しており、フランス国内の90%以上の電力を - そのうちほぼ75%が原子力発電だ - それも比較的安い電力料金で供給している。レヴィはすでに2050年までに、古い原子炉に取って代わるべき新原発を40基建設するという計画を出している。

風力や太陽による再生可能エネルギーではしかし、フランスはヨーロッパの中でも後れを取っている。国内の電力需要の5%も満たしていない。それはことに、EDFのせいだ:パリのエリート学校を卒業したEDFのトップマネージャーたちや労働組合のリーダーたちはこぞって、「すべてを原発エネルギーで賄う」企業方針をパリの政府だけに留まらず、小さな田舎の村一つ一つに至るまで浸透させるだけの影響力を持ち続けてきたからだ。

グローバルにこの分野をリードするカリフォルニアの太陽エネルギー企業サンパワー社ですら、フランスでは成功できなかった。彼らはフランスの石油マルチ企業トタルを2011年に買収してEDFをつまずかせようと思ったのだが、目論見どおりにならなかったのだ。「原子力ロビーはいまだに強力だ。国中で彼らの原発があらゆる税金を使って政党や市庁舎に金を出している」とパリのサンパワーのマネージャーフランソワ・ル・ニーはEDFに対する彼の長年の戦いを説明している。「公式には再生可能エネルギーを推進しているが、実際には1%以上にはならないのだ」と。

新しいエネルギー移行法は、それをこそ変えるつもりのようだ。ここにははっきりと目標が書かれてある。2030年までにフランスの発電の40%が再生可能エネルギーで満たされること、2025年には遅くとも、フランスの国内電力の50%しか原発による発電であってはならない、としている。しかしそのためにはフランスでは「文明変換」が必要だと、国立太陽エネルギー研究所の所長ジャック・ル・セニュールは認めている。EDFだけでなく、あらゆる市庁舎、そして市民たちが電力の消費と生産について新しい考え方をするようにならなくてはならない、と大統領が研究所を訪れた際に、ついでのように述べている。

しかし、誰がフランス人に考え方を改めるよう強制するのだ? 「我々が陥っている罠は、安い電力料金です」とジャック・ル・セニュールは語る。再生可能エネルギーが電気料金を高くした場合に、フランス人の誰がそれをよしとするだろうか?

ここにEDFのごり押しの権力がある。EDFは、かかる費用に合わせて電力料金を値上げする代わりに、原子力経済の結果かかる費用を消費者に請求書の枠内で払わせる代わりに、借金をするのである。国家が所有者として保証をするので、EDFはそれが可能だ。債務は370億ユーロに膨れ上がった。これは年間の売上高の約半分に相当する。 

これは本来ならスキャンダルのはずだ。というのも、借金は税金を払う市民がいつの日か払わせられることになるからだ。しかし、この自己欺瞞に終わりを告げようとする人は誰もいない。大統領ですら、同じだ。そして約束のエネルギー移行法を実現するためには、電力料金は上がらざるを得ない、さもなければどんな刺激策や補助金を持ってきてもEDFと競合しようとする会社が市場占有率を上げるのは難しい。しかし、電力料金を極端に値上げすれば、反対運動が高まるだろう。そんなことはオランドはできっこない。エネルギー移行法はどうあれ、だ。

2015年10月11日日曜日

これで日本は滅亡するか、という問題だった

フクシマ事故発生当時総理大臣だった菅直人が今ドイツに来ている。秋恒例のフランクフルトブックフェアで、ドイツ語訳された彼の著書「東電福島原発事故 - 総理大臣として考えたこと」を紹介するために招かれたのだ。それに伴い、ベルリンでは、ベルリン日独センター主催で緑の党の財団ハインリッヒ・ベル財団の会場で講演をおこなうことになっている。シュピーゲル・オンラインが菅直人とおこなったインタビューをここに訳した。 (ゆう)

菅元首相、フクシマ事故について語る
これで日本は滅亡するか、
という問題だった
インタビュー:ヴィーラント・ヴァーグナー
本文はこちら:http://www.spiegel.de/politik/ausland/ex-premier-ueber-fukushima-die-frage-war-ob-japan-untergeht-a-1056836.html

フクシマの原発事故は、もっとひどいことになっていた可能性がある。単に偶然が重なり、日本全体が崩壊せずに済んだのだ」と当時首相だった菅直人氏は語る。彼は巨大都市東京を避難させることも考えたという。

シュピーゲルオンライン:菅さんは首相として2011年3月11日とそれからの数日間、福島第一原発の事故とその影響に対処していたわけですが、世界が想像していたより事態は深刻だったのでしょうか?

菅直人:私たちは、間一髪のところでもっとひどいカタストロフィーになることから逃れたと言っていいでしょう。もし当時、東京とその周辺の約5千万人の人間を避難させなければならなかったとすれば、日本という国の壊滅となっていたでしょう。首都東京はフクシマから250キロしか離れていません。そうならなかった理由としては、結果として2つの点が挙げられます。1つは、東電の社員が献身的にわが身を犠牲にして残ってくれたこと、もう1つは、幸運が偶然にも重なったことです。これはまさに神の加護としか言いようがない。

シュピーゲル:日本の原発はそれまで、まったく安全と思われてきました。それなのに、実際は偶然しか頼りにならなかったわけですか?

:はい。例えば、4号機の燃料棒を入れておく貯蔵プールにまだ水があったというのは、まさに幸運であったというほか説明のしようがありません。また、1号機から3号機までの格納容器には穴が開いていたため、圧力の抜け道がありました。もし格納容器が爆発していたら、被害者の数はもっと多くなっていたことでしょう。それに原発敷地はもっと汚染がひどくなっていて、救助隊が近寄れない状態だったはずです。

シュピーゲル:どうして東京を避難させなかったのですか?

:東京が危険になる可能性があることは、すぐに考えました。しかし、首相としてそれを公に話してしまえば、パニックを招くことになったでしょう。それに、そういうことになれば避難計画があることが必要だったでしょう。その代わり私がおこなったのは、避難の範囲を福島第一原発から徐々に広げていったことです。まず3キロから5キロ、そして10キロ、最終的には20キロまで半径を広げました。今知っていることを当時の私が知っていたとしたら、その半径をいっぺんに広範囲に広げていたと思います。しかし、こういうことの決断はとても難しいのです。半径を倍に広げれば、その分多くの人間を安全な場所に避難させなければいけないからです。

シュピーゲル:当時知らなかったことで、現在わかっていることとは何ですか?

:例えば、当時言われていたように、地震があった次の日ではなく、地震があってからわずか2時間半後に炉心溶融が始まっていたことです。すべてがものすこいスピードで進んでいくので、その事態の発展に私たちはあとからもたもたとついていくだけだった。高線量の下で作業しなければならないので、東電は3月12日の午後、格納容器から水素を放出するため、2つのベントを開くことに成功しました。でも、それまでにかなりの水素が出てしまっていたのです。それで原子炉のタービン建屋が爆発してしまいました。

シュピーゲル:原子炉建屋は次から次へと爆発しましたが、そのとき無力感を感じませんでしたか?

:1号機の爆発を、私はなんとテレビで初めて知ったのです。そのときにはすでにもう2時間が経っていました。私は何の情報も渡されていなかったのです、省庁からも、東電からも一切なにも、です。

シュピーゲル:それでも菅さんは3月15日の早朝に車で東電本社まで行き、東電の菅理職たちを一喝したということで、日本のマスコミから非難されましたね。総理大臣としての権限を越える行為だと。

:あの時、東電の社長は経産大臣に「福島第一原発に残っている作業員を撤退させたい」と言っていたのです。私にとってはそれは、日本が滅亡するかという問題だった。だから私は、自分で東電に行って幹部とどうしてもそこに残るようにと説得するよりなかったのです。もし本当に5千万人もの人間を避難させなければならない事態が生じていたら、誰が責任をとったでしょう、東電ですか?

シュピーゲル:日本のような産業大国が原子力発電事故を想定して準備していなかったというのは、ちょっと信じられないのですが。

:私は以前に厚生大臣や財務大臣も勤めましたが、専門家の助言を信頼して受けることが出来ました。しかしフクシマ事故後、原子力安全保安院長に事態を聞いてみても、彼が何を言っているかさっぱり分からない。それで「あなたは原子力の専門家なのですか?」と聞いたのです。すると彼は「いいえ、私の専門は経済です」と答えたのです。官庁の人事ですら、原子力発電の事故は原則としてないものと考えていたのです。

シュピーゲル:菅さんも首相として、始めは原発安全神話を信じていらっしゃったのではないですか?

:フクシマを経験してから、私の考えは180度変わりました。私は日本だけでなくできれば世界中で原子力エネルギーを放棄することを求めています。

シュピーゲル:フクシマではいまだに汚染水が太平洋に流れ込んでいます。同時に、今の安倍総理大臣はフクシマ事故後停止されていた日本の原発をまだ再稼動しようとしています。

:これは私に言わせれば完全に間違っています。原発がどれだけ大きい危険をはらんでいるか知った今となっては、ドイツが決定したように、我々も原発はすべて停止し、別のエネルギー源を開発すべきです。

シュピーゲル:市民の大多数が反対しているにもかかわらず、日本政府はなぜ今も原発に固執しているのでしょうか?

:電力会社、官僚、産業の利権が主な原因です。

菅直人:69歳。2011年3月11日に福祉まで最悪原発事故が起きた答辞に日本の総理大臣だった。太平洋沖で地震が発生した後、福島第一原発で複数の原子炉で炉心溶融が起きた。2011年9月、危機管理を非難されて辞任した。総理大臣就任後、わずか15ヵ月後のことであった。フランクフルトのブックフェアで菅氏は、原子力発電事故を巡る彼の体験をつづった『東電福島原発事故 ─ 総理大臣として考えたこと』のドイツ語訳を紹介する。

2015年10月10日土曜日

安倍話法

「市民の意見30の会」に依頼され、安倍が終戦から70年の今年8月に出したいわゆる「安倍談話」に関し執筆し、10月号に掲載された文章。(ゆう)


安倍話法
梶川ゆう

 戦後70年を記念したやたらに長い安倍話法の談話に関しては、日本でもかなり分析され、批判があった。この談話を「評価する」とか「評価しない」という表現が目立ったが、評価より前に根源的な問題は、この「談話」がいったい何のために出され、誰に向かって出されたかがもとより不明であることだ。「侵略」や「植民地支配」、「お詫び」に「反省」といった言葉があるかないか以前に、総理大臣がなにを意図してどういう内容のメッセージを出すかが問題だ。しかしこののらりくらりの作文は、キーワードは散りばめたか知らないが、自分を主語とする意見表明を一切避けた、掴みどころのない空のおしゃべりになってしまった。それはまず、この談話を発信する対象である「相手」がないからだ。そればかりか「自分」すらそこにいない。

 どこかで見覚えがあると思ったが、文章は文科省認定の歴史の教科書と同じだ。表面的には「過去」の出来事が描写されているようで、そこには主語がない。「飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々」「たくさんの市井の人々が無残にも犠牲になりました」「将来ある若者たちの命が、数知れず失われました」「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」と、あたかもすべて天災などの不可抗力であったかのような言い方だ。飢えや病に苦しませ、殺す原因を作ったのは誰か、たくさんの人々を無残に犠牲にしたのは誰か、若者たちの命を数知れず奪ったのは誰か、女性の名誉と尊厳(この表現もあまりに無責任だが)を傷つけたのは誰か、はここでは一切問われていない。もちろん問いたくないからである。まして「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです」にいたっては、これが一国の総理が戦後70年という節目に公表する談話の内容だとはとても思えない戯言だ。取り返しがつかないから何も言わないというのが、この国の総理というわけか。

 それでも、世界で初めて原爆を落とされた犠牲国であることに関しての意識は相変わらず高い。今年5月にニューヨークで開催された核不拡散条約再検討会議で日本は、各国の指導者は広島・長崎の被爆地を訪問すべきだという素案を出し、中国の反発を受けてその提案は丸ごと削除された。日本が「被害者」に徹し「加害者」としての意識をさらに捨て去ろうとしているのが認められなかったのは当然だ。

 同じく5月、中国・韓国でかつて日本に強制労働を強いられた被害者の賠償訴訟や慰安婦問題で活躍している日本人弁護士グループがドイツの例を勉強しに訪れ、それに通訳として同行する機会があった。通訳をしたのはドイツの「記憶・責任・未来基金」(以下EVZ)と、ナチスドイツの強制労働者賠償問題に被害者側に立って携わってきたハンブルクの弁護士2人との話し合いだ。「EVZ」は、ナチスによるかつての強制労働者に対する賠償を行う目的で2000年に設立された基金で、基本資金の52億ユーロの半分は国が、残りの半分は経済界が出し、2007年に賠償金支払いを終えている。100カ国に散らばる合計166万人の元強制労働者に合計44億ユーロが払われ、現在は歴史を伝え、人権擁護を訴え、ナチス被害者を支援することを主な活動目的に、教育、若者の理解・交流振興、人権アピールのプロジェクト等を支援したり、奨学金を出したりしている。EVZとはその名が示すとおり、ナチスが行ったあらゆる犯罪、迫害、暴力、強制を記憶し、その規模、実態、状況、結果をはっきりと理解し、今と未来に伝える責任と、同時にその過去を償う責任がドイツにはあるとして、それを行動に示した基金だ。興味深いのは、資金を出した企業には、ナチス時代に強制労働者を雇っていた古い企業だけでなく、戦後できた企業も入っていたことだ。若い会社も「過去の清算を共に負担する」ことでイメージアップを図ったわけである。また強制労働者を雇っていた企業が、その下請け会社にも参加を要求した。実際は、この基金に寄付すればその分税金免除になったため、企業は免税の理由もあって金を出したともいえるし、その分国家が半分以上資金を出したのだともいえる。それでも「過去の清算」をする努力をアピールする意志があり、それを「望ましい態度」として受け入れる社会があったのだ。

 補償を行うにあたり、EVZは調査を丹念に行い、元強制労働者を見つけ出して登録し、強制労働の程度(収容所に入れられた人を最高レベルとして)に応じて賠償金を支払った。しかし期限内に登録できなかった人は、これでもう賠償金を受領する権利がなくなったし、受領した人たちもそれ以上に請求することは不可能になった。その次に私が通訳をしたハンブルクの弁護士2人は、ことにそのことを手厳しく批判していた。つまり、ドイツ国家は「要するにこれだけのことをしたから、もうそれ以上は要求するな」と言えるために、このような方法を選んだのだと。ナチスの負の遺産リストは長く、叩けばいくらでもぼろが出てくるようだ。それでもドイツはまがりなりにも向き合う姿勢を見せ、主語で謝り、「謝る」相手を定義してきている。

 安倍は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言ったが、安倍が岸の孫であるように、私たちの子や孫は「あの戦争」をしてきた国で生まれ育つ以上、現在に続く関わりを否定することはできない。そこで思い出すのが1998年に小説家マルティン・ヴァルザーがドイツ書籍平和賞を受賞した際、アウシュヴィッツの罪については疑う余地はなくとも、その過去を毎日のように突きつけられては目を背けたくなる、過去の克服が儀式的になり単に道徳的な懲らしめとなっている、記憶の想起、罪の意識、償いは個人的なものであるべきだという主旨を謝辞で述べ、大論争になったことだ。当時のユダヤ人中央評議会議長ブービスはこれを「精神的な放火魔」と糾弾し、いわゆる「ヴァルザー・ブービス論争」に発展した。加害者は「これだけ償いをしたからもういいだろう」という権利はない、ということがこの時盛んに言われたが、謝罪をせざるを得ない宿命を作り出した根本が何なのかを見据えない限り、何も始まらない。謝罪というなら、その罪の内容を把握、分析、理解しなくては謝ることはできない。その罪を誰が誰に与えたのかをはっきりさせない限り、誰が誰に謝ることも、誰が誰を赦すこともできない。しかし発信相手も発信する主語もない安倍の空虚な談話では、お詫びや反省という言葉があろうがなかろうが誰の胸にも入りはしない。彼は主語で何も語っていないし、誰に対しても語りかけていないからだ。このような虚言を敗戦70年の談話として総理大臣がもったいぶって話したのだから、なんとも情けない国である。

2015年9月19日土曜日

なにがなんでもあっては困る ── フクシマの子どもたちの甲状腺ガン

IPPNWアレックス・ローゼン博士による、
福島県の小児対象2巡目甲状腺スクリーニング検査の
結果についてのコメント

今年8月末に福島医科大学が、小児対象の2度目の甲状腺スクリーニング検査の新結果を発表した。またもやたくさんの子どもたちに甲状腺ガンが見つけられたわけだが、これでもまだ国も福島県も「フクシマ事故」との因果関係は認めたくないらしい。IPPNWドイツ支部の小児科医師アレックス・ローゼン博士が、それについてコメントしているので、それを訳した。                     (ゆう)

原文:http://www.fukushima-disaster.de/deutsche-information/super-gau/artikel/c0954b1c87134eef0b3444d988c2d152/da-nicht-sein-kann-was-nicht-sein-da.html 

なにがなんでもあっては困る
  ── フクシマの子どもたちの甲状腺ガン

【2015年9月8日付け】
2015年8月31日に福島医科大学は福島甲状腺ガン検査の最新データを発表した。過去4年間、合計30万人以上の18歳未満の小児・若者たちが調査対象となり、それぞれ異なる時期に2回にわたり、検査を受けた。

いわゆるスクリーニング検査の1巡目では、537人に超音波検査で異常が発見され、穿刺細胞診断が必要となった。病理診断で、この中から113人にガンの疑いがあるとされた。これらの子どもたちのうち99人は転移または腫瘍が危険な大きさまで成長したということで手術を受けなければならなかった。手術後、一人が良性の腫瘍と判明したが、手術を受けたその他の98人では、すべてガンが確認された。

2巡目のスクリーニング検査で、対象の子どもの数が最初のスクリーニング検査の対象より多かったのは、フクシマ事故後に生まれた子どもたちも対象に含まれたからである。

2巡目のスクリーニング検査では、2014年4月から2016月3月まで合計37万8778人の小児を対象に、これまでに16万9445人が検査を受けている。この二度目のスクリーニング検査からはまだ、15万3677人の小児(40.5%)の分しか結果が出ていない。このうち88人は穿刺細胞診断が必要となり、病理診断で合計25人に新しくガンの疑いがもたらされた。このうち6人は転移または腫瘍が危険な大きさまで成長したということで手術を受けなければならなかった。そして全員にガンが確認された。

ということは、これで合計104人の子どもたちに甲状腺ガンが診断されたことになる。その全員が転移またはガン腫瘍が危険な大きさまで成長したことで手術を余儀なくされている。さらに33人の小児において甲状腺ガン発症の疑いがもたれており、手術を受けることになっている。

2巡目のスクリーニング検査では58.4%に結節や嚢胞が発見された。1巡目のスクリーニング検査では、その率は48.5%だった。ということは、最初のスクリーニングで甲状腺異常がまったくみられなかった28,438人の小児に、今回結節や嚢胞が確認されたということである。そのうちの270人の結節や嚢胞はしかもあまりに大きかったため、さらなる検査が必要となったほどである。最初のスクリーニング検査で小さい結節や嚢胞が確認されていたさらに553人の子どもたちにおいては、いちじるしい成長が見られたため、さらに踏み入った診断をしなれければならなくなったほどである。甲状腺ガンが確認された症例の6人は、初回のスクリーニング検査と2巡目のスクリーニング検査の間にガンが発生している。

初回と2巡目のスクリーニング検査の間に言われているとおり二年が経過しているとすれば、一年間の発生率は10万人の小児に対し年間2人ということになる。日本の小児甲状腺がんの発生率は、フクシマ炉心溶融事故以前は10万人の小児に対し年間0.3人だった。この増加はもはや「スクリーニング効果」では説明できるものではない。さらに、被ばくした福島県の子どもたち6万7千人が検査対象に入っていないこと、そして20万9千人以上の子どもたちがまだ2度目のスクリーニング検査の順番を待っている状態であることを忘れてはならない。これにより、甲状腺ガン症例の数がこれから数ヶ月のうちにまだ増加するであることを憂慮する根拠が十分あるということだ。ガンには潜伏期間があるため、放射能被ばくによる影響が最も顕著に現れるのは、今後数年の間だと予測される。

福島医科大学が甲状腺検査の新しい数字を公表したその日、福島県の行政はこの警戒すべきデータに反応を示した。予測以上に高い数字で小児甲状腺ガン発症が検出されたことが、福島第一原発の複数の炉心溶融により放射性ヨウ素が放出されたことと関係があるかどうかを調査するよう、ある研究チームに要請したのである。この調査の結果はしかし、始める前からすでに決まっていたようである。「福島県で発生している甲状腺ガン症例が原発事故が原因であるとは考えられない」というものだ。このような発言を研究が始まる前にすでに行なってしまうのは、検査の重大さそのものを疑うことにもつながり、驚きを隠せない。

こうして、福島県も日本政府と同じように、国内の原子力産業と実に癒着構造にあり、いわゆる「原子力ムラ」の影響は今も巨大であるということが確認されるだけだ。「原子力ムラ」とは日本では、原子力経済、原発推進派の政治家、金で言いなりになっているメディア、腐敗しきった原子力規制当局等から成り立っている集合体を指し、これらが日本国内の原子力産業を存続すべく推進している。これでは、放射線被ばくによる甲状腺ガン発生に関する、信頼できるまじめな検査を福島県が行なうとは考えられず、今年中には発表されるという結果も、前もって彼らが行った明言と同様であろう。すなわち、「甲状腺ガン発症例が著しく増加したことと、2011年3月に起きた何重もの最悪規模の事故にはなんの因果関係もみあたらない」というものに違いない。それは、なにがなんでもあっては困るからだ。

アレックス・ローゼン医学博士
ドイツIPPNW